ロシア唯一の空母「アドミラル・クズネツォフ」が全く動いていません。北洋艦隊の基地に留め置かれたままの状態が続いています。
ロシア海軍が保有する唯一の航空母艦「アドミラル・クズネツォフ」は、もはや国家の威信を象徴するフラッグシップというよりは、軍事史の中で取り残された遺物へなりつつあります。
ロシアが保有する唯一の空母「アドミラル・クズネツォフ」(画像:ロシア国防省)。
というのも、この艦、当初の計画では2024年末までに戦列復帰する予定だったのですが、いまだ一度も洋上に姿を現していません。巨大な艦体はムルマンスクの岸壁に繋がれたまま、冬の極夜と春の融雪に晒されています。
「アドミラル・クズネツォフ」の建造は、ソビエト連邦がその軍事的威信を維持せんとした冷戦末期にさかのぼります。1985年に起工し1990年に就役した同艦は、西側諸国の空母と比べ、大きな違いを有していました。
それは、搭載する航空機のためのカタパルトを持たず「スキージャンプ式」の飛行甲板を採用したこと、そして艦載兵器として対艦・対空ミサイルを自衛的に備える「重航空巡洋艦」という異端のカテゴリーに分類された点です。
ですが、就役直後にソ連自体が崩壊したこともあり、当初からその運用は多難でした。唯一の実戦参加となった2016年のシリア沖展開では、わずかな期間で2機の艦載機(Su-33、MiG-29K)を失うという手痛い損失を被っており、艦載機は陸上飛行場から発進せざるを得なくなるなど、空母としての存在意義を問われました。
それから2年後の2018年、「アドミラル・クズネツォフ」は近代化改修のためドック入りします。老朽化した動力機関、航空機発着関連設備、そして電子戦システムの刷新が予定されていたものの、その道のりは波乱に満ちていました。
まず、改修中に艦を支えていたロシア最大の浮きドック「PD-50」が突如沈没。これによって艦体が損傷したうえ、艦上クレーンが甲板に倒壊するという事故が発生。さらに翌年には火災が発生し、作業員2人が死亡、10人以上が負傷する惨事となりました。
こうした災厄に加え、2022年以降はウクライナとの全面戦争によって、国家資源の大半が陸上戦力およびミサイル開発に投じられるようになってしまい、海軍、それも高コストで維持に困難を伴う空母の再建は優先順位が限りなく低くなってしまった模様です。
艦載機の発着艦訓練をする予定は?そうしたなか、2024年、ついにドック作業を終えた「アドミラル・クズネツォフ」は、艦体を海上に戻しました。しかし、それは名目上の「進水」であり、出港の報は2025年5月現在に至るまでありません。ムルマンスクの北方艦隊基地に留め置かれたまま、試験航海どころかエンジンの本格稼働すら確認されていないのです。

ロシア海軍の航空母艦「アドミラル・クズネツォフ」ドックを出て改修はほぼ完了したと考えられる。しかし復帰予定は大幅に遅延している(画像:ロシア国防省)。
ロシア国防省は、公式には本艦の運用を再開する方針を堅持しているものの、その実態は「現役のふりをした非稼働艦」に他ならないと言えるでしょう。皮肉にも、この艦が果たしている最大の役割は、国際社会に対して「ロシアは空母を持っている」という象徴的なメッセージを発信し続けている、その1点しかありません。
合理的に考えれば、「アドミラル・クズネツォフ」はすでに退役していてもおかしくない状況です。
それでもなお、この空母が形式的に「現役」を維持しているのは、ロシアという国家の軍事的メンツ、さらには核戦力と並ぶ「大国の証」としての海軍航空戦力の存在感が無視できないからと言えます。プーチン政権が依然として「大国の幻想」を保持しようとする限り、この艦の存在は国内向けのプロパガンダ装置として機能し続けるでしょう。
空母という兵器は、本来「航空戦力の投射」を実現する存在です。しかし「アドミラル・クズネツォフ」は、その逆、すなわち「力を投射できなくなったこと」を証明する象徴となってしまっています。
岸壁に繋がれたこの艦は、もはや海を支配することも、航空戦力を展開することもなく、ただそこにあるだけの、巨大な鋼鉄の塊です。その姿に映るのは、帝政ロシア、ソ連、そして現代ロシアが追い続けた「大国幻想」の残照であると言えます。
ロシアは、その威信をかけて再び「アドミラル・クズネツォフ」を海洋へと送り出すことに取り組んでいると考えられますが、もし空母として稼働状態に入ったならば、それはそれで、ただでさえウクライナ侵攻で戦費がかさんでいるロシアの国家財政にとっては重荷になるでしょう。
ひょっとしたら、現在のロシアにとっては、今のような「浮いているだけの形」が一番いいのかもしれません。