京福電気鉄道「嵐電」は京都洛西に嵐山本線と北野線の路線から成り、嵐山本線は併用軌道もあります。京紫色をまとう嵐電は上空からどのように見えるでしょうか。
京都は、1895(明治28)年に公共鉄道として日本初となる、京都電気鉄道の電車が走り始めた地です。同鉄道は京都市電へと受け継がれ、路面電車は古都の足として活躍していましたが、自動車社会の到来で1978(昭和53)年に全廃となりました。
北野白梅町行き下り電車が「桜のトンネル」へ突入。夜はライトアップする。京紫色と桜色が良く調和していた(2025年4月4日、吉永陽一撮影)
とはいえ、京都から路面電車が消えたわけではありません。洛西には京福電気鉄道嵐山本線と北野線があり、嵐山本線は部分的に併用軌道区間が存在しています。洛東にも京津三条~御陵間に京阪京津線の併用軌道区間がありましたが、こちらは1997(平成9)年に廃止されたため、京都の路面電車というと京福電気鉄道が唯一の存在です。
会社のルーツは1907(明治40)年開業の嵐山電車軌道で、京都(四条大宮)~嵐山間を結び、その後は京都電灯と合併しました。京都電灯は京都と福井で電力供給事業を行い、福井県の要請で福井県内の電鉄経営に関わりました。
戦前、京都電灯は洛西の嵐山本線と、帷子ノ辻駅から分岐する北野線、洛北の叡山本線と鞍馬線、福井の越前電鉄と、3地域で鉄道運営を展開し、1943(昭和18)年に京都電灯は鉄道部門を分離し、京福電気鉄道が誕生しました。
やがて京福電気鉄道叡山本線と鞍馬線は、新たに出資して設立した叡山電鉄へと譲渡します。一方、福井の越前本線では2000(平成12)年から2001(平成13)年にかけて起こした2度の正面衝突事故によって国交省から運行停止命令を受け、事故防止策を投じる資金難から第三セクターのえちぜん鉄道へと譲渡し、福井からは鉄道部が撤退しました。
京福電気鉄道は社名にこそ福井が残りますが、現在、鉄軌道と索道運営は、嵐山本線と北野線、比叡山のケーブルカーとロープウェイ路線となります。鉄軌道は地域の人々から「嵐電(らんでん)」の愛称で親しまれており、今や京福電気鉄道よりも嵐電の方が定着しています。
人、人、人の嵐山から出発さて、前置きの歴史が長くなってしまいましたが、2025年4月初めの京都は桜が満開になりつつあるときでした。平日とはいえ、桜が満開となる晴れ模様の嵐山は、人、人、人です。渡月橋、嵐山公園、竹林の小径など、観光客がいない場所は見当たりません。これが休日となったら、道路に人があふれているかもしれません。

嵐山の全景を北方向から。嵐電嵐山駅は手前だ。桂川と渡月橋、嵐山公園、奥は阪急嵐山線嵐山駅だ。保津峡は写真右手となる(2025年4月4日、吉永陽一撮影)
嵐山の地形は、洛西の拓(ひら)けた街並みが愛宕山や小倉山などの山々に阻まれ、桂川も上流は保津峡の急流となります。古都らしい瓦屋根の家々と寺町が広がる街並みに、周囲と調和を保った嵐電嵐山駅があります。
駅舎は屋根もシックで周囲と同化しており、上空からだと見つけるのに一苦労しましたが、街並みに溶け込んでいて好感を持ちました。
嵐電の電車は単行運転だけでなく、撮影日は2両編成でした。車体色は嵐電100周年記念から新標準色となった「京紫」です。紫色の単色はあまり例がなく、似合うのかなと不安に思えてしまいますが、上空から見ると意外と古都の街並みを邪魔せず、程よい差し色となっていました。
上空から北野線の下り電車を追い、西大路通に面した終点の北野白梅町駅へ。線路は西大路通を越えた先の今出川通りへと延び、北野天満宮付近に終点の北野駅がありましたが、1958(昭和33)年に軌道を京都市電へ譲るかたちで廃止となっています。その痕跡は道路へと変わり、上空からでも判別できませんでした。
嵐山本線は、広隆寺、併用軌道、沿線の桜と、嵐電の代表的光景を捉えました。そして嵐電といえば、24年ぶりの新車となるモボ1形「KYOTRAM」の存在です。2025年2月28日に営業運転を開始した車両で、丸みを帯びた大胆な正面スタイルが特徴となっています。箱型の車両が占める嵐電にとっては異形の存在と言えましょう。
空撮はドローンではなく、固定翼機(セスナ機)からの撮影です。
※内容を一部修正しました(16日9時半)。