都心から郊外へ向かう「放射線」と、環状のJR武蔵野線が交わる駅は、西船橋、新松戸、南浦和、西国分寺など、優等列車が通過する駅が大半を占めます。なぜこのような乗換駅ばかりになったのでしょうか。
松戸市(千葉県)は2025年3月、JR常磐線の新松戸駅に快速電車を停車させるための検討状況を公表しました。首都圏の鉄道路線は、そのほとんどが都心から郊外へ向かう「放射線」で、横方向につなぐ「環状線」は山手線、「東京メガループ」と称される武蔵野線、南武線、横浜線、私鉄では東武野田線、京成松戸線など限られています。
JR武蔵野線の209系500番台(画像:写真AC)
環状線は放射線と連絡することで本領を発揮しますが、武蔵野線から放射線への乗り換えは今ひとつ使いにくいという印象があります。後から開業した埼京線こそ、快速停車駅の武蔵浦和(武蔵野線の駅も同時開業)と接続していますが、総武線は西船橋、常磐線は新松戸、東北線(京浜東北線)は南浦和、中央線は西国分寺で、いずれも各駅停車(中央線は快速)のみの停車です。もう少し使い勝手の良い路線にはならなかったのでしょうか。
2023年に開業50周年を迎えた武蔵野線ですが、山手線の外側に環状線を建設する構想は、1927(昭和2)年の鉄道敷設法予定線に「我孫子~大宮線」「与野~立川線」として存在していました。この路線は1942(昭和17)から翌年に現地調査が行われましたが、戦局の悪化で立ち消えとなります。
戦後、地方産業の振興、地方都市育成の観点から、秩父~所沢~浦和~越谷~我孫子を結ぶ「玉葉線」の建設構想が改めて浮上すると、埼玉県は1952(昭和27)年に「所沢市を起点に志木、吉川、越谷など県南部の都市を横断し、千葉の流山を経て我孫子に達する延長40kmの路線」の整備を運輸省に要望しました。
上述のように埼玉県の要望は、都心からの放射線で分断された県南地域の東西連絡が目的でした。一方、国鉄は1955(昭和30)年、行き詰まりつつある首都圏の「総合的輸送改善計画」を取りまとめ、近い将来、飽和状態に達すると予想される東海道線、山手貨物線、中央線、東北線、常磐線の線路容量を打開する貨物重要幹線「東京外郭環状線(武蔵野線)」を構想しました。
国鉄は航空写真などによる調査の結果、新鶴見、登戸、武蔵境、西川口、柏を結ぶのが適当との見解を表明しますが、浦和市は武蔵野線建設促進期成同盟を組織し、流山~越谷~浦和を通るルートを求めます。
武蔵野線のルートはこうして決まった埼玉県も1956(昭和31)年、浦和市の要望を踏まえて「工業の原材料品の大半は常磐、東北、中央各国鉄線で輸送されているが、これらは都心を通過するため輸送能力を低下している。
『越谷市史(通史下)』によれば、その後も大宮、岩槻、春日部、野田の各市は東武野田線を国鉄で買収し、武蔵野線の一部とする「大宮ルート」や、川口市による草加~川口~戸田を通る「川口ルート」の誘致運動が起こりました。
国鉄新橋工事局は航空測量や実地調査を行い、1959(昭和34)年に「南柏~三郷~草加~鳩ケ谷~川口~西川口」の第一案と、「南柏~流山~越谷(蒲生)~南浦和」の第二案に絞り、国鉄本社に具申しました。最終的に1964(昭和39)年4月、運輸大臣は同年に設立された日本鉄道建設公団に対し、松戸~吉川~越谷~浦和~所沢~国分寺~府中に至る武蔵野線基本計画を示し、建設を指示しました。
こうしてルートが正式に決定しましたが、挙げられた経過地はいずれも駅名ではなく地名です。松戸駅や浦和駅、国分寺駅などすでに市街化が進んだ地域への鉄道建設は用地取得に多大な費用がかかり、工期も長引きます。そもそも貨物列車のバイパス路線に市街地への乗り入れは必要ないため、主要駅からややずらす形で、各路線に接続したのです。
1960年代前半と現在の航空写真を比較すると、当時は新松戸、南浦和、西国分寺とも市街地から外れており、容易に土地取得が可能なルートだったことが分かります。国分寺と国立に挟まれた西国分寺すら、当時は開発が進んでいませんでした。
ピックアップした3区間のうち、最も住宅地に近いのは南浦和~武蔵浦和間です。武蔵野線はこの区間をやや南に膨らんで通過しますが、これはすでに住宅化していた周辺の高台を避けるためでしょう。また、一部区間をトンネルにすることで、住宅地を潜り抜けています。
開業後、沿線が急速に住宅化し、利用者が増えたことで、冒頭の新松戸に加え、南浦和、西船橋などでも速達列車の停車を求める声が上がりましたが、ホーム新設用地の確保は困難であり議論は進みませんでした。
そんな中で浮上した新松戸駅のホーム増設構想。土地区画整理事業との連動という行政の本気は実現するのか、そして他の結節点に波及するのか、今後の動きに注目です。