1940年6月、第二次世界大戦の序盤、戦禍に揺れるフランスにひとつのうわさが流れました。「ドイツ軍に幽霊のような師団がある」と。
1940年6月、第二次世界大戦の序盤、戦禍に揺れるフランスにひとつのうわさが流れました。「ドイツ軍に幽霊のような師団がある」――。さて、この「幽霊師団」、実態はどのようなものだったのでしょう。
フランス侵攻時に第7装甲師団の主力を担った38(t)戦車(画像:帝国戦争博物館)
この幽霊師団、実際には幽霊などではなく、1940年の2月にドイツ陸軍に新編されたばかりの第7装甲師団のことを指します。師団長は、その後、北アフリカの戦いで「砂漠のキツネ」という異名でイギリス軍から知られることになるエルヴィン・ロンメル。このころの階級は少将(ドイツ国防軍の軍制では少将ですが、米英や旧陸軍制度では中将に相当の階級)で、ドイツ軍にとって、いわば“虎の子”の装甲師団 を任されたばかりでしたが、そのたぐいまれな部隊運用が、第7装甲師団が幽霊師団と呼ばれる理由に大きくかかわっていたのです。
1940年2月、ドイツ陸軍はフランス・ベルギー侵攻作戦を前に、編成を大きく見直し、再編しました。そしてこのとき生まれたのがロンメル率いる第7装甲師団です。同師団は、200両以上の戦車を3個大隊に配備していましたが、主体はI号戦車、II号戦車のほか、チェコから得た35(t)、38(t)戦車といった軽戦車で、当時のドイツ装甲師団の主力であったIII号戦車、IV号戦車などの中戦車の配備はごく少数にとどまりました。
そのほか2個ライフル大隊、1個オートバイ大隊、1個対戦車大隊、1個工兵大隊といった編成で、数字の上では他の装甲師団と大差はありませんでしたが、先述のとおり軽戦車が主体となっていたため、フランス侵攻の中核となった第1、第2装甲師団よりやや小粒感がありました。
フランス侵攻開始時の第7装甲師団は?ロンメルはそんな師団を着任直後の2月から徹底的に鍛え上げたといいます。訓練はおもに快速で行動するための野外演習、そして無線を利用した連携作戦、そして正確な射撃といった内容でした。

炎上するフランスの軍艦とそれを眺める第7装甲師団のIV号戦車乗員(画像:連邦公文書館)
夜になれば小隊長クラスまで将校を全員集めて、昼間の訓練の講評を行い、そしてまた翌朝訓練を開始するといった具合です。そのかいあって、1940年5月、ドイツ軍がフランス・ベルギー侵攻作戦、通称「黄色作戦」を開始するころには、第7装甲師団の練度は驚くほど高まっていました。
さて、ドイツ軍のフランス・ベルギー侵攻作戦といえば、いわゆる「電撃戦」として喧伝された作戦として有名です。この戦いで機動力をいかんなく発揮し、足止めになると思われたアルデンヌ森林地帯をものともせずに、素早く侵攻した戦車軍団の活躍は、多くの書物などでも語られています。
ロンメル率いる第7装甲師団はフランス侵攻の初動において、主攻を担当するA軍集団に所属しながら、アルデンヌの中央部には直接展開せず、ベルギー南部を経由してムーズ川流域へと進出しました。連合軍の意識がオランダ・ベルギー北部(B軍集団)に向いていたスキを突き、アルデンヌの難地形を突破してムーズ川を渡河。A軍集団の突破作戦の一翼を担う形で、フランス奥地への電撃的な進撃を展開しました。
味方からも位置把握が困難な「幽霊みたいな師団」その機動力を生かして突き進んでいくドイツ軍の各装甲師団ですが、スピードが想定以上にとびぬけていました。進軍速度が速すぎるため歩兵師団を大きく引き離し、早々にフランス国境に達してしまったのです。

「アハト・アハト」こと8.8 cm FlaK (画像:パブリックドメイン)
この状況で、第19装甲軍団を指揮するグデーリアンが、マース川を渡河後、停止して後続の師団を待つ命令を半ば無視し、フランス中心部に向け突進したことが有名ですが、実は、ロンメルに関しても同様に止まることをよしとせず、上官からの停止命令も無視し、ひたすらに前進しました。
なお、ロンメルは当時グデーリアンのように複数の装甲師団を束ねる装甲軍団の司令官ではなく、あくまでいち師団の司令官です。彼の上司であるヘルマン・ホト上級大将が指揮する第15装甲軍団は、他部隊や歩兵との連携を考慮して慎重に進撃していましたが、ロンメル率いる第7師団だけが勝手に突出した形になりました。
その進軍スピードは驚異的で、ときには上司が余計なことを言われないように通信を遮断していたため、味方ですら位置把握に困難を要す状態でした。その行動の速さや神出鬼没さが、幽霊や悪霊のように思えたということで、いつしか第7装甲師団は、「幽霊師団」と呼ばれるようになったのです。
「幽霊師団」は実際に敵陣の中心部を24時間で240km走破し、2日間砲撃を浴びせ続けて敵を降伏させたり、奇襲攻撃などもそのスピードをもって成功させました。
なお、前述した通り第7師団は軽戦車が主体で、英仏の戦車部隊と対峙した場合はかなり火力不足でした。しかし、卓越した戦車指揮や重戦車相手には本来は対空砲である8.8cm砲を対戦車砲として用いる戦法を取っていました。この運用方法が有名になったのが、1940(昭和15)年5月21日、アラスで行われた戦車戦です。混乱するフランス軍のかわりに反撃の主体となったイギリス軍の「マチルダI」や「マチルダII」といった重装甲の歩兵戦車に対し、同師団は8.8cm砲を用いて撃破していくことになります。
ちなみに、ロンメルの命令無視・独断専行傾向は北アフリカ戦線でドイツ・アフリカ軍団を指揮する立場になっても続きますが、その行動は電撃的な侵攻が評価される一方で、補給路の確保など戦略的視野の欠如なども指摘されています。