定期便就航から60年を迎えた戦後唯一の国産旅客機「YS-11」。ここで今一度、旅客機=実用機としてのYS-11を考えたいと思います。

定期便就航から60年

 戦後唯一の国産旅客機「YS-11」は1965年に定期路線へ就航し、2006年に引退しました。今年は就航から60年、さらに来年は引退20年のためYS-11が話題に上ることもあるでしょう。ここで今一度、旅客機=実用機としてのYS-11を考えたいと思います。

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東亜国内航空(現・JAL)のYS-11(画像:JAL)。

 YS-11は元々1945年の敗戦後に日本の経済復活を目指す一環として1956年に開発が打ち出され、1962年8月30日に初飛行しました。そして、1965年4月1日から日本国内航空(当時)により東京~徳島~高知線へ就航し日本各地の空港を結び続け、2006年9月30日に日本エアコミューターの沖永良部~鹿児島線をもって国内定期旅客便から姿を消しています。

 2025年現在、YS-11は既に国土交通省航空局や海上自衛隊からも引退し、現在は航空自衛隊が使うのみになっています。

 YS-11は実用機として名機だったか否か――。評価の前にそもそも「名機の条件」とは、がありますが、ごく簡単に考えると、安価で大量生産された・使い勝手が良く使用者に好評だった・乗客に親しまれ有名だった、という要素が考えられます。YS-11の総生産数は182機。世界の旅客機の中で決して多くなく、事業的にも赤字で幕を下ろしてしまいました。

 使い勝手が良かったかというと、回顧や記録に様々な評価がある中で、航空会社にとって手間のかかる機体だったことが伺えます。

一例を挙げると雨水による水滴漏えいの改善や操縦室の暖房の効き具合が良くなかった、などです。反面、短い滑走路でも使える離着陸性能は良かったとの評価も残っています。

なぜ「低評価が優勢」なのか?

 こうしたネガティブな評価には、YS-11は元々、戦前戦中に欧米機に負けない旧陸海軍機を手掛けた設計者たちを集めた開発体制だったことから、大きな期待がかかった末の反動だったこともあるでしょう。YS-11は「飛行機はつくれるけど旅客機はつくれない」と揶揄されたこともあります。そのようななかで名機と言ってよいのか、との考えが浮かび上がってきます。

 ただ、回顧と記録のどちらからも感じられるのは、YS-11を育てるため開発陣も航空会社も、それこそオール・ジャパンで「苦楽を共にした」ことです。

 敗戦により日本が豊かさを取り戻していない頃に、YS-11を戦勝国である米欧の旅客機に負けないように育てよう、輸出し「メイド・イン・ジャパン」を世界へ広げたい意欲が見られたことです。昭和に流行したスポ根アニメで描かれた「血と汗と涙の結晶」や「チーム力」にイメージが重なったことも背景にあるかもしれません。改善を重ねて立派な旅客機に仕立て上げることで、メーカーも航空会社も知識と経験を蓄え成長した――。そういった意味では「一心同体」に似た思いもあったことでしょう。

 いささか日本人好みの判官贔屓と思うものの、こうした「ストーリー」もあり世間で親しまれたことを思えば、YS-11は名機と言ってよいと思います。

 そして、「これから」へYS-11をどう語り継いでいくのがよいのでしょうか。

旅客機の開発はメーカーが主体と思いがちですが、ユーザーである航空会社も当初から関わってきます。航空会社を抜きにして旅客機は完成しません。これは業種の「結集」を意味します。この結集が日本の工業力を強くするのは今も変わりありません。「結集」の事例としてYS-11を「名機」として語り継ぐのが良いと筆者は考えています。

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