アメリカが作り出したB-29は、優秀な性能から第2次世界大戦の後も朝鮮戦争に参加するなど現役で使用されました。しかし、その陰に隠れる形で日本の降伏とともに退役した4発エンジンの戦略爆撃機が存在しました。

B-29の保険を用意できたアメリカの工業力

 太平洋戦争(第2次世界大戦)終盤、日本各地を爆撃したことで広く知られるアメリカの4発エンジン爆撃機B-29「スーパーフォートレス」は、爆弾を最大9t積んで、高度1万m以上を飛行することが可能な性能を有しており、戦略爆撃機として優れた性能を有していた機体です。

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ボーイングが開発・量産した大型爆撃機B-29「スーパーフォートレス」(画像:アメリカ空軍)。

 B-29はボーイング社が開発し、約4000機生産されましたが、アメリカは同機が万一失敗したときに備えて別の戦略爆撃機も同時並行で開発していました。それがB-32「ドミネーター」です。

 B-29は、確かにアメリカの技術力の高さを示す高性能機ですが、アメリカの凄さは、それが失敗したときに備えて、B-32という保険をしっかり用意していた点にもあるといえるでしょう。

 そもそも、第2次世界大戦前夜、世界各国で戦略爆撃は検討されており、当然アメリカも長距離渡洋爆撃機を考えていました。1939(昭和14)年9月に大戦が始まると、アメリカ国内で戦略爆撃機の開発を最優先すべきと意見が挙がります。

 1940(昭和15)年1月、アメリカ陸軍航空軍(のちのアメリカ空軍)は各航空機メーカーに対して新型戦略爆撃機の開発を要求しました。しかし、大型機の開発には莫大な予算がかかります。バックアップ機の用意は、事実上、国家プロジェクトである戦略爆撃機の開発に失敗するわけにはいかないというアメリカの意気込みを示す証でもあったといえるでしょう。

 アメリカ陸軍が出した、従来のB-17戦略爆撃機を上回る新型機の開発要求に応じたのは、ボーイング、コンソリデーテッド、ロッキード、ダグラスの4社でした。しかし、ロッキードとダグラスの2社は設計のみで、のちに新型機プロジェクトから降りたため、試作機の製作へ移行したのはボーイングとコンソリデーテッドの2社だけでした。

本命B-29のバックアップとして誕生

 新型爆撃機の本命はボーイング案でしたが、アメリカ陸軍はボーイング案のバックアップとして、コンソリデーテッド案も進めることを決めます。こうしてボーイングの試作機XB-29とともに、コンソリーデーテッドの試作機XB-32も開発進行とともに量産ラインの構築が始まりました。

チョー優秀な「B-29」もし開発失敗したら… 米国が用意した「リスクヘッジ爆撃機」その顛末
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コンソリデーテッドが開発したB-32「ドミネーター」。B-29とは異なり僅か118機しか造られなかった(画像:アメリカ空軍)。

 1941(昭和16)年12月8日には、日本がハワイの真珠湾を攻撃したことで日米も第2次世界大戦に参戦します。XB-29とXB-32の両機種とも開発は難航しますが、XB-32はひと足早く1942(昭和17)年9月7日に初飛行しました。

 XB-29の初飛行は2週間ほど遅れた9月21日だったので、この時点ではXB-32の方が開発が先行していたことになります。しかし、与圧装置の不具合で、初飛行後にもたつくと、そのあいだに本命のXB-29が開発を完了させました。また大量生産体制も1944(昭和19)年3月下旬以降、ボーイングで本格的に動き出し、試作機を表す「X」が外されてB-29として同年5月8日より実運用に入りました。

 一方のコンソリデーテッドのXB-32ですが、B-29が本格運用をスタートした時点で、その必要性が薄らぎ始めました。これを受け、アメリカ陸軍はXB-32の位置づけをB-29のバックアップから、B-17およびB-24といった大型爆撃機の後継に据えることとし、XB-32は与圧装置なしで量産することが決まります。

 コンソリデーテッドでは1944(昭和19)年9月に量産初号機が完成し、「B-32」として採用されましたが、この時点でB-29と比べて約半年も遅れており、当初練習機タイプ含めて1800機もあった生産計画は、最終的に試作機含めて118機にまで減らされました。

運用は半年あまりで終了 性能も生産数もB-29とは段違い

 こうして、B-32の運用開始は1945(昭和20)年1月27日にずれ込みました。

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コンソリデーテッドが開発したB-32「ドミネーター」。戦争が集結したら1945年8月30日に早くも運用が終了している(画像:アメリカ陸軍)。

 このころになるとドイツは劣勢に追い込まれており、米英ソを始めとした連合国の勝利は確実なものとなりつつあったことから、ヨーロッパ戦線でB-32は必要なくなっていました。そのため、太平洋戦線へ投入されたものの、同年8月15日に日本が降伏したことで、短期間で爆撃機としての運用は終了し、偵察機として一時用いられたあと、8月30日には早々と運用終了になりました。

 本命のB-29が開発に成功し、性能も十分発揮すれば、バックアップがいらなくなるのは当然です。ちなみにB-29は生産数だけでなく運用期間もB-32と比べて圧倒的に長く、朝鮮戦争にも参加し、1960(昭和35)年6月まで使用されました。

 なおB-32は、B-29と比べると全長と全幅でひと回り小さく、機体重量で5tほど軽量でした。性能を比較すると、速度と爆弾搭載量はほぼ同格でしたが、航続距離は劣っていました。また与圧装置がないため、上昇限度は9360mに抑えられており、1万2000m以上の高度で飛行することが可能なB-29とは比較になりませんでした。

 しかも、機体各部の銃座は、計画時はB-29と同じ遠隔操作式のリモコン銃座の搭載が予定されていましたが、量産型では既存のB-17やB-24爆撃機と同じ有人の動力銃座に改められており、リモコン銃座で射撃管制装置も搭載していたB-29と比べて見劣りするものでした。

 こうして比べてみると、結局、B-32は総合性能で、やはりB-29を超える存在にはなり得なかったといえるのかもしれません。

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