2025年8月15日で終戦から80周年を迎えます。しかし、その前夜、1945年8月14日深夜から翌15日未明にかけて、アメリカ軍のB-29による空襲を受けた都市がいくつか存在します。
地元の方々に話を聞くと、周辺の太田市や前橋市などには、陸海軍用機の生産開発を担っていた中島飛行機の拠点があり、伊勢崎にも同社の工場があったことから、「中島飛行機を爆撃した際、余った爆弾を落としていったらしい」と、父母や祖父母から聞いたという声が多くあります。しかし、図書館などで市史や当時の新聞を確認すると、実際には伊勢崎市街地を明確に狙った空襲であったことが分かります。
アメリカ軍は当時、日本の航空機や車両に関する工場を徹底的に攻撃し、生産能力を著しく削いでいました。しかし日本はこの損害を生産拠点が分散することで対応します。対し、アメリカ軍では、鉄道インフラを活用して兵器の生産継続や大規模工場の機能移転が行われていたことを偵察により確認し、1945年7月には全国180都市を攻撃対象として選定していました。
その中でも伊勢崎は、いくつかの町工場や小規模な繊維工場が点在しており、郊外の中島飛行機工場への部品提供も行っていたとみられていました。また、伊勢崎駅は国鉄伊勢崎線(現・JR両毛線)と東武伊勢崎線が乗り入れる、重要な輸送インフラとして機能していました。
こうした「継戦能力」を削ぐために、重要な輸送拠点である伊勢崎駅や中島飛行機を支える関連工場、そして周辺の住宅地に対して、広範囲かつ無差別に爆撃が行われました。これは明確な「戦略爆撃」であり、グアムを拠点としていたアメリカ陸軍航空隊第73航空団および第314航空団のB-29計93機によって、大規模に実施されています。
爆撃当時の様子とは?当時の様子について、空襲で建物が全焼したという創業100年の和菓子店「親玉本店」の店主・根立美知子さん(88歳)に話を伺いました。
話を聞いた親方本店(斎藤雅道撮影)
根立さんは当時8歳で、記憶はあまり定かでないとのことでしたが、「慌てて(現在の市立図書館近くの)防空壕に皆で逃げたことと、通っていた小学校近くの織物組合(現・織物会館)の建物が燃えていたのは覚えています」と回想します。
また、夜中に最初に起こされた際の心境については、「B-29の音はしていましたけど、まさかここに爆弾を落とすとは思っていませんでした」とも。駅や学校といった目立つ建物が狙われていたことは、当時の人々にも分かっていたようです。
この空襲により、伊勢崎市内では1953戸が被災、8511人が被災しました。死者数は近隣の村々を含めて約40人とされています。同日に実施された埼玉県の「熊谷空襲」では数百人の死者が出ていることと比較すると、被災者数は多かったものの、死傷者数は比較的少なく済みました。
犠牲者が少なかった理由は市長の判断のほかにもこれには、5日前に行われた「前橋空襲」の情報を収集していた当時の板垣源四郎市長が、市民の生存率を高めるため、初期消火を行わず即時避難を指示したことが功を奏したことに加え、当日の無風状態も大きく影響しています。

資料館に飾られたM47焼夷弾のレプリカ(斎藤雅道撮影)
この空襲では、駅周辺や北国民学校(現・北小学校)周辺の市街地はほぼ焼け野原となりましたが、表通りを挟んで反対側にあった伊勢崎神社などの建造物は戦前の姿のまま残りました。市史によると、焼失箇所は爆撃機編隊の間隔を示すように、3本の線状に分かれており、本来は風で延焼するはずが、ほとんど燃え広がらなかったことがうかがえます。アメリカ軍も同様の認識だったようで、目標に達していないと判断し追加爆撃を検討していたとも言われていますが、その前に終戦となりました。
なお、この周辺では、現在も立派な店舗を構える「親玉本店」のように、空襲で焼け出された後すぐに再建し、営業を再開した商店が多く存在します。1946年9月に戦災復興計画が始まった直後には、すでに復興住宅や商店がほぼ完成しており、道路拡張などを巡って住民との対立も発生し、事業は一時棚上げとなっていたようです。
その影響なのか、2010年代から始まった伊勢崎駅の高架化事業や、それに伴う駅前広場・道路の整備が行われる以前は、戦災バラックや復興住宅を元とした店舗や家屋もわずかに残っていたそうです。
ちなみに、親玉本店の店主・根立さんの一族のルーツは埼玉県深谷市にあり、親戚には、かつて1万円札の肖像となった渋沢栄一の運転手を務めていた人物もいたとのことです。その縁から、渋沢栄一ゆかりの品々を東京から伊勢崎の店に疎開させていたそうですが、東京の家は焼け残り、伊勢崎の家が全焼してしまったため、ほとんどの品は失われてしまいました。
店内には、数少ない現存品のひとつとして、渋沢栄一の直筆による「徳不孤必有隣」と書かれた書が展示されています。