1945年、今から80年前の8月15日、日本は戦争に負けました。そこから約半月後の9月2日、東京湾に停泊した戦艦「ミズーリ」の艦上で日本の降伏文書の調印式が行われ、日本の降伏が決定しています。
【90年代まで現役!】これが、湾岸戦争で艦砲射撃を行う「ミズーリ」です(画像)
この調印式はなぜ、戦艦「ミズーリ」を使い、艦上で行われたのでしょうか。この「ミズーリ」という戦艦の艦生とともに見てみましょう。
1945年9月2日に調印式が行われた「ミズーリ」は東京湾北緯35度21分17秒 東経139度45分36秒に位置していました。これは、かつてペリー提督が日米和親条約調印の際に旗艦「ポーハタン」を停泊させていたのと同じ位置です。わざわざこの位置に停泊させたのは、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーの演出だったといわれています。「日本をアメリカに従わせる」という強い意志の表れともいえるかもしれません。
その後、次々に同地に連合国軍各国の船が集まり、その代表者たちが、「ミズーリ」の甲板へと集まりました。
マッカーサーが代表者として演説を行い代表署名したのち、各国の代表と日本の代表として重光葵氏が署名を行い、式典は終了しました。約23分間の式典は通信艦船「アンコン」により、全世界に中継されたといいます。
さて、この世界的にも重要な降伏文書調印式に、アメリカの戦艦「ミズーリ」が使用されたのには、いくつか理由があるといわれています。
まずそのひとつは、だれにも邪魔をされない海上で式典を行いたかったこと。各国からの重要人物が集結する式典であり、日本の降伏を決定させる重要な式典ですから、もちろんテロなども警戒しなければなりません。
しかし、日本はまだ敗戦直後で混乱の只中にあり、十分に警備を行える大きな建物なども皆無でした。そこで、アメリカは海上での式典を思いついたのです。海上の艦の上であれば、警備もしやすく、自国の船でやってくる各国の代表者も集合しやすいという訳です。
大統領ゆかりの艦だった?しかし、各国の代表が集まる艦としてなぜ、「ミズーリ」が選ばれたのでしょうか。その件には当時アメリカ大統領であるハリー・S・トルーマンが関係しているとも言われています。
「ミズーリ」の艦上で調印を待つ日本使節団(画像:アメリカ陸軍)
「ミズーリ」は、1944年ブルックリン海軍造船所で建造されました。愛称は「マイティ・モー」もしくは「ビッグ・モー」。当時最新鋭でアメリカが現状最後に建造した戦艦のクラスとなる、アイオワ級戦艦の3番艦に当たります。
この「ミズーリ」の名付け親は、トルーマン大統領の娘、マーガレット・トルーマンです。さらに、トルーマンはミズーリ州が出身で、政治家としてもミズーリ州選出の連邦上院議員でした。そうした自身を象徴するような大統領肝いりの最新鋭戦艦を、世界中の要人が集まる場で使うことで、権威を誇示するという狙いがあったと言われています。
ほかにも、マッカーサー元帥の思惑としては、戦時中はなにかと対立することもあったチェスター・ニミッツ海軍元帥から異論が出ないように華を持たせると共に、日本に関してはアメリカが主導的に動き屈服させたということを誇示する狙いもありました。
実は同年5月にドイツが無条件降伏した際は最初、フランスのランスでアメリカ、イギリス、フランスが参加して降伏文書の調印式が行われました。しかし、これに不満を覚えたソ連が、ベルリンを陥落させた自国が主導的な立場であるべきと強く主張。結果的にベルリンで再度、正式な降伏文書調印式が行われ、ソ連が主導的役割を果たしたと強く演出したことがありました。

記念艦としてハワイの真珠湾に置かれることになった「ミズーリ」(画像:アメリカ海軍)
そのため、対日戦の勝利に関しては場所の指定、式典の進行などすべてをアメリカ主導で行い、ソ連に主導権を与えないようにしたという面もあります。そのためには、スペース的に余計な人員の派遣が不可能で、他国が口を出しにくい自国の戦艦の甲板が最適だったという訳です。
連合国各国の戦後の覇権をめぐる争いは、実はこのときすでに始まっていました。アメリカには、戦後のソ連との対立に備え、ソ連の極東地域に近い日本の占領政策に関しては自国主導で是が非でも行いたいという思惑がありました。そのため、日本が“連合軍”ではなく“アメリカに”降伏したと思わせること。それが占領政策の正当性を訴えるうえで、何より重要だったのです。その点では、警護が容易で、第二次大戦以前はその国の戦力の象徴でもあった戦艦は、調印式の舞台装置としてはうってつけでした。
戦艦の威厳のある雰囲気は、当時太平洋の海戦では実質的な主役であった空母には出せないものでした。加えて飛行甲板は風などの問題で文書を扱うには不向きです。
さてこの降伏文書調印式という重要な役目を務めた戦艦「ミズーリ」はその後どのような艦生をたどったのでしょうか。調印式の後、アメリカに戻った「ミズーリ」は、同年10月27日のアメリカ海軍記念日の式典で、トルーマン大統領も乗艦し、21発の礼砲を発射するというこれまた大役を仰せつかりました。その後も何度か大統領の移動に使用されています。
1950年代に入ると朝鮮戦争で活躍し、1955年2月に退役、太平洋予備隊に入りました。しかし、約30年後の1984年、海軍長官ジョン・F・リーマンによる「600隻艦隊構想」により「ミズーリ」は突如復活します。 最新鋭の武器最新の電子機器が搭載され、サンフランシスコで再就役、湾岸戦争へと送り出されました。そして、最後の任務は、ハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典への参加となりました。
現在、戦艦「ミズーリ」は、ハワイの真珠湾で、「戦艦ミズーリ記念館」として展示されています。