艦隊型駆逐艦の完成形「雪風」

 駆逐艦「雪風」は、旧日本海軍のなかでも指折りの強運艦として知られています。

【引き渡し前の大掃除?】ピカピカに磨き上げられた駆逐艦「雪風」の艦内(写真)

 そのことは2025年夏に公開された映画『雪風 YUKIKAZE』においても重要なテーマとして描かれています。

 ただ、ここで気になる人は「あれ、『雪風』って幸運艦じゃないの?」と思うかもしれません。確かに「幸運艦」という言葉でも同艦は広く説明されていますが、その戦歴を細かく見ていくと、自らの努力で幸運をたぐり寄せた姿が浮かんできます。

「幸運」というより、まさしく「強運」という言葉の方がふさわしいのです。では、「雪風」がなぜ強運艦となり得たのか。その理由を見てみましょう。

 駆逐艦「雪風」が竣工したのは1940(昭和15)年1月のこと。陽炎型駆逐艦の8番艦として佐世保海軍工廠で完成しました。日本海軍は1920年代末から、魚雷を使った戦いが得意な吹雪型駆逐艦を数多く建造しました。この吹雪型に始まる一連の駆逐艦は、艦隊型駆逐艦とも呼ばれますが、陽炎型はその完成形と評価されています。そんな高性能な駆逐艦なので、強運を引き寄せる力があっても不思議はないでしょう。

 しかし、19隻建造された陽炎型のうち終戦まで現存していたのは「雪風」ただ1隻でした。吹雪型から陽炎型に連なる艦隊型駆逐艦69隻を見ても、生き延びたのは大破して後方に退けられていた「潮」と「響」の2隻だけ。

また陽炎型の後継となる夕雲型駆逐艦19隻は全滅しています。

 優秀な性能を誇ったはずの艦隊型駆逐艦がこれほどの損害を出したのは、海戦の形が変わってしまったからです。艦隊型駆逐艦には、戦艦などの主力艦と一緒に行動し、決戦を前に敵主力艦隊に夜戦を挑み、高性能な魚雷を使った必殺の雷撃戦で勝利することが期待されていました。

 ところが航空機の進化ですべてが変わってしまいます。太平洋戦争の時期には、航空機だけで、主力艦を撃沈できるまでに至っています。一方で艦隊型駆逐艦は、対空戦闘を想定していない艦でした。それどころか、艦隊決戦がないまま、艦隊型駆逐艦は不本意な任務に投入されるなかで、苦手な航空攻撃や潜水艦の待ち伏せを受けて大損害を出し続けたのです。

寺内艦長と「雪風」が引き寄せた強運

 もちろん陽炎型駆逐艦は対空兵器を搭載していました。あくまでモデルケースですが、竣工時は25mm連装機銃を2基、計4門の搭載に留まっていたものの、順次、機銃が追加され、「雪風」の場合では最終的に28門にも増えています。

幸運艦? いいえ「強運艦」です! 旧海軍の不沈艦「雪風」に見...の画像はこちら >>

1940年に佐世保で撮影された、旧日本海軍の駆逐艦「雪風」(画像:アメリカ海軍)。

 なお、主砲の三年式12.7cm砲は、対艦戦だけでなく対空戦闘も可能な両用砲です。ところが実際は装填や旋回性能の問題で、航空機の速度に対応できない、名ばかりの両用砲でした。

 このような艦でありながら、なぜ「雪風」は生き残れたのでしょう。まず大きいのが1943年12月10日に寺内正道少佐を艦長に迎えたことです。実戦派で現場主義、即断即決を大事にするという、駆逐艦乗りにぴったりの艦長は、すぐに乗組員たちの心を掴みます。

 ところが寺内艦長が着任してからが「雪風」の正念場でした。主要な海戦だけでもマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして事実上、連合艦隊最後の出撃となる戦艦「大和」の水上特攻作戦に投入されたのです。いずれも敵の激しい航空攻撃で大損害を生じた負け戦ばかりでした。特に最後の「大和」護衛任務では。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦8隻が参加したなかで、生還できたのは「雪風」を含む駆逐艦4隻のみ。しかも2隻は大破状態でなんとか逃げ帰ったという状況の、厳しい戦いでした。

 しかし、このときの寺内艦長の指揮が、「雪風」の伝説を生んだと言っても過言ではありません。彼は、艦橋の最上層にある発射発令所の測距儀用の小窓に腰を据えたのです。

 じつは、陽炎型には敵機を見張る防空指揮所が設けられていませんでした。

もちろん艦橋の屋根に登れば見晴らしは良いのですが、艦橋の操舵室に命令を出す伝声管などの設備がありません。

 その点、測距儀用の小窓は中二階の構造になっているので、艦長の下半身は艦橋の中に残り、宙ぶらりんになっています。そこで寺内艦長は上半身を外に乗り出して敵機の動きを読み、操艦指示を出したのです。

乗員の練度も高かった「雪風」

 ただし、測距儀用の小窓から上半身を乗り出した状態では声を出しても届かないので、寺内艦長は自身の足元に立たせた伝令の肩を蹴って指示を出しました。右肩を蹴られたら「面舵(おもかじ:右旋回)」、左を蹴られたら「取舵(とりかじ:左旋回)」と伝令が叫ぶようにして、その声を艦長の命令と操舵手が受け取り、その通りに舵を切るのです。

 また寺内艦長は、大型三角定規のような簡易測距儀を手にしていました。これで無数の敵機の中から危険な動きをしている敵機を見分け、的確な操艦指示を出していました。

 戦時中に建造された、例えば秋月型のような駆逐艦は、防空指揮所を設けていて、多くの見張り員が置かれていました。しかし混乱状態の中での報告には、時に誤報も混ざり、艦長の判断を狂わせる危険があります。

 対空戦闘用の貧弱な設備を逆手に取った、寺内艦長のシンプルな解決策が、「雪風」強運の秘密でした。けれども、寺内艦長1人の力で実現できた強運ではありません。「雪風」は他の艦の乗組員から、「応急や内務の訓練密度が突出していた」と評価されています。

 寺内艦長が着任するまでに、「雪風」はスラバヤ沖海戦や南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に参加しながら、艦も乗組員もほぼ無傷で生き残っているのです。

 規律と訓練、そして互いの絆が、これ以上望めないほど揃った「雪風」を引き継いだという幸運があったからこそ、寺内艦長は強運を引き寄せることに成功し、結果「雪風」は大戦を生き抜くことができたのではないでしょうか。

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