マッハ3で発射?

「世界最速のジェット機」としても知られているアメリカの超音速偵察機SR-71ですが、実は開発元であるロッキード(現ロッキード・マーチン)では、それに加え、まるで“ミニSR-71” とでも呼べるような、無人偵察機D-21も開発しています。マッハ3で飛び、撃ち落とすのは難しかった超音速偵察機を持ちながら、アメリカはなぜ、さらにD-21を求めたのでしょう。

【写真】えっ…これが「世界最速の航空機」の“弟ポジション機”驚愕の全貌です

 結論からいうと、D-21開発は「タグ・ボード(荷札)」のコード・ネームのもと、極秘プロジェクトで進められましたが総じて成功とは言えませんでした。

 D-21はSR-71の機首を切り取ってエンジンを付けたような形だったものの、別に設計された無人機でした。大きさは全長が13mでSR-71の4割ほど。エンジンは、始動に高い速度が必要となるラムジェットと呼ばれる形式だったため、後にSR-71へ発展する超音速偵察機A-12を改修したM-12という機体に背負われて離陸し、M-12の飛行中に発進する形を取りました。

 プロジェクトが始まったのは1962年。中国と旧ソ連の関係が冷え込み、中国が独自に核開発へ乗り出した頃で、その核実験場を探るのが目的でした。しかし、実験場があるのは、中国の内陸深くに入ったウイグル自治区のロプノール。当時は人工衛星による偵察は期待できず、スパイ機関として名高いCIA(アメリカ中央情報局)は米国の大手航空機メーカー、ロッキード(現ロッキード・マーチン)と契約し、ロッキードの有名な設計チーム「スカンク・ワークス」がD-21の開発に乗り出しました。

 しかし、M-12に載せられてマッハ3.2~3.3の飛行に成功したものの、D-21の試験発射時にM-12が破損し搭乗者が死亡する事故も起きました。

 このため、発射用母機をB-52戦略爆撃機に変更して試験は続けられ1969年9月に中国の核実験場へ向けて発射されましたが、偵察後の写真の回収に一度も成功せず、結局1972年半ばにプロジェクトは打ち切られてしまいました。

なぜ無人機を作ったのか

 アメリカは既にマッハ3を超える偵察機を使っていたのに、なぜD-21までもつくったのでしょうか。背景にはパイロットをできる限り危険にさらさない考えがあったのは確かです。

 偵察機は対象とする国の領空に侵入すれば撃墜されるのは確実です。米ソの冷戦が白熱した1950年代は国境付近を飛んでいても攻撃されたことがあり、日本の北海道沖などでも信号情報傍受用のアメリカ軍偵察機が旧ソ連に撃墜されています。1960年5月には世界を驚かせたU-2偵察機撃墜事件が起き、台湾から発進したほかのU-2が中国国内で撃墜されてもいます。

 SR-71が任務に就いて以降も撃ち墜とされない保証はいつまであるのか、運用者や設計者は常にこうした不安に脅かされていました。そのために中国の奥深くの実験場へ飛ばす偵察機は、超音速無人機を選んだのです。

 とはいえD-21は成功したとはいえず、生産数のすべてを使い切ることはありませんでした。残ったD-21は現在、米国内の博物館で展示されています。昨今の無人偵察機と言えば、米国のRQ-4など細長い直線の主翼を持った機体を主に思い出します。しかし、それらと異なる黒く鋭い外形のD-21は今見ても、スパイ機と言われれば十分に頷くほどの迫力があります。

編集部おすすめ