レトロ、だけど最新の戦闘機「ハリケーン」とは?

 2025年11月現在、イギリスではダックスフォードを拠点とするHistoric Aircraft Collection所有の「ハリケーン」戦闘機を、ポーランドのデンブリン空軍大学まで飛ばすためのクラウドファウンディングが動いています。

【動画で見る】イギリス空軍保存の「ハリケーン」戦闘機が飛ぶ様子

 イギリス生まれの「ハリケーン」戦闘機が、なぜポーランドを目指すのか、それは同機とポーランド空軍が、切っても切れない強い絆で結ばれているからです。

 第二次世界大戦を代表するイギリスの戦闘機といえば、スーパーマリン「スピットファイア」でしょう。ドイツ空軍との死闘となった英本土航空戦、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」に勝利した立役者で、以降、改造を重ねながら大戦終結までイギリス空軍の主力戦闘機として運用されました。

 しかし、「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスを救ったもう一つの戦闘機がホーカー「ハリケーン」です。機体構造は鋼管のフレームに布張りの半骨組構造を採用、主翼も分厚くて工夫のない平面形という、複葉機時代の技術を強く残した戦闘機でした。

 そのため、金属製モノコック構造で、カミソリのように薄い主翼を持つスピットファイアと比べると、技術的にはかなりレトロな戦闘機と言わざるを得ません。

 では「ハリケーン」は「スピットファイア」よりもずっと早く生まれていたのかというとそうではありません。「ハリケーン」の試作機であるK5083の初飛行は、いまから90年前の1935年11月6日、一方「スピットファイア」はそれから4か月後の1936年3月5日に初飛行しています。

 よって、イギリス空軍は、ほぼ同時にレトロ機と最新鋭戦闘機を開発していたことになります。なぜこのような、一見すると無駄とも言える手筈を取ったのでしょうか。

自由ポーランド軍の翼として

 それは、航空機メーカーの製造設備が原因でした。長く続いた不景気で軍需も低調なために、イギリスでは古い製造機械の更新が進んでいませんでした。しかしヒトラー率いるドイツが再軍備を開始して、これに対抗するために戦力を整える必要が生じたため、「スピットファイア」のような新鋭機量産用の設備更新を急ぐと同時に、既存設備での量産が容易な戦闘機を保険として開発したのです。

それがホーカー「ハリケーン」になります。

「バトル・オブ・ブリテン」の魂ふたたび! ポーランド人飛行隊...の画像はこちら >>

翼下に爆弾を吊った状態で飛ぶ「ハリケーン」戦闘機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 だから、外見こそレトロな「ハリケーン」ですが、その中身はロールス・ロイス製マーリン・エンジンに、洗練された引き込み脚と密閉キャノピーを採用するなど、「スピットファイア」に匹敵する最新技術が注がれていました。

 ホーカー・ハリケーンは、7.7mm機銃を8挺も搭載した高火力と、シンプルゆえに頑丈な機体の特性を活かして、「バトル・オブ・ブリテン」ではドイツ軍爆撃機を効果的に阻止しました。「スピットファイア」が敵戦闘機を格闘戦(ドッグファイト)で拘束している間に、「ハリケーン」が鈍重な爆撃機を狙う。そうした役割分担を基本戦術としたのです。

 そして「ハリケーン」は、ポーランド空軍とも深い関係がありました。第二次世界大戦は、ドイツ軍がポーランドに軍事侵攻して始まりました。ポーランドへの軍事援助を約束していたイギリスは「ハリケーン」戦闘機の供与を試みましたが、1か月もしないうちにポーランドは敗北して、全土が独ソに分割占領されてしまいます。

 それでも、ポーランド軍の一部は主に東ヨーロッパ経由でイギリスやフランスに逃れ、そこでドイツ軍と戦い続けます。そのため、「バトル・オブ・ブリテン」が始まった1940年夏には8000名を超えるポーランド空軍要員がイギリスにいました。

 彼らはイギリス空軍の指揮のもとで戦うこととなり、様々なスコードロン(飛行中隊)に配属されました。

そこでポーランド軍の戦闘機パイロットが出会ったのが「ハリケーン」でした。

ポーランド空軍の記憶を繋ぐための記念飛行

 ポーランド空軍の将兵にとって、「ハリケーン」は戦争勃発後ようやく手にした一線級の機体でした。この「ハリケーン」で、例えば第601スコードロンに所属したヴィトルッド・ウルバノヴィッチュ少尉は、8月8日にメッサーシュミットBf109戦闘機を撃墜したのを皮切りに戦果を重ねています。結果、終戦までに18機を撃墜し、彼はエース・パイロットになりました。

「バトル・オブ・ブリテン」の魂ふたたび! ポーランド人飛行隊の礎作った「レトロな戦闘機」英から“奇跡の渡欧”へ
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イギリス空軍の指揮下で戦っていたポーランド空軍義勇飛行隊の「ハリケーン」戦闘機(画像:パブリックドメイン)。

 ウルバノヴィッチュ少尉をはじめとするポーランド人の活躍を見たイギリス空軍は、ポーランド人を中心とする部隊の編成を決めます。こうしてポーランド人飛行隊とも呼ばれる第302スコードロンと第303スコードロン、2個飛行隊が創設されるのです。

 どちらも主力装備は「ハリケーン」でした。ちなみに、「バトル・オブ・ブリテン」のもっとも苦しい時期、イギリス空軍の戦闘機パイロットのうち、実に5%をポーランド人飛行隊が占めていたのですから、存在感の大きさが窺えます。

「バトル・オブ・ブリテン」を凌いだ後、間もなくポーランド人飛行隊の装備は「スピットファイア」に変更されます。とはいえ、祖国を失って流浪の軍隊となっていたポーランド空軍パイロットに居場所を与え、ドイツ軍と戦う力を与えたのは、「ハリケーン」でした。

 ところが戦後になると、東西冷戦が激化したことで、西側に逃れて戦ったポーランド兵の多くは祖国への帰国が適わず、イギリスなど諸外国で生涯を終えました。

これは、大国の狭間で揺れるポーランドの歴史の暗い部分と言えるでしょう。

 しかし「バトル・オブ・ブリテン」からちょうど85年目、そしてポーランド空軍創設100周年となる2025年に、ポーランド人パイロットの戦いを称え、その記憶を紡ぐために、ポーランド飛行隊塗装の「ハリケーン」を飛ばそうという機運が高まったのです。

 これが冒頭に記したイギリスでのクラウドファンディングでした。今度は、イギリスからポーランドまでフェリーフライトさせよう。そういった気概が詰まった記念プロジェクト、それが85年の時を超え、動いています。

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