「軍用第一、領地一番の宝」とベタ褒め

 東京のど真ん中、中央区日本橋小網町に、かつて「行徳河岸(ぎょうとくがし)」と呼ばれた乗船場がありました。江戸期には、木製の和船が人や荷物を乗せて発着する江戸屈指の旅客・物流ターミナルでした。

【現地】行徳舟航路の「今の姿」を見る(写真)

「行徳」は、千葉県市川市南部の地域名です。北は江戸川、南は東京(江戸)湾に挟まれ、南隣に浦安市が控えます。

 千葉県の地名が河岸の名前になったのは、徳川家康が軍事・安全保障上重視した「塩」と関係があります。

 戦国時代も終盤の1590(天正18)年、江戸入りを果たした家康は、真っ先に塩の確保に乗り出します。塩は人間の生命維持に不可欠で、不足すれば将兵は戦えません。もちろん冷蔵庫がない当時は、野菜・魚介類の保存にも必須で、兵糧の重要アイテムです。塩がいかに大事だったかは、「敵に塩を送る」の諺からも明らかです。

 幸いにも江戸の目と鼻の先、東10km強の場所に広大な塩田があり、製塩が盛んな行徳がありました。家康はここを直轄領として手厚く保護し、「軍用第一、領地一番の宝」と、ベタ褒めしました。

 次に家康は、塩を江戸まで効率良く運ぶ兵站(へいたん)線(輸送ルート)の構築を急ぎます。塩は重くかさ張るため、人馬での陸上輸送よりも、水運の方が効率的です。

 江戸幕府が始まった1603(慶長8)年当時、行徳と江戸との間、現在の東京都江東区・江戸川区一体は広大な湿地帯でした。

しかも沖合まで干潟が続く遠浅のため、船がうっかり海岸に近付くと、座礁しかねません。

 そのため船は仕方なく、江戸湾を南へ大きく迂回しながら江戸を目指さなければならず、時間、コスト、安全面でも大きな負担です。

 そこで、この地の埋め立て・干拓と並行して、運河の開削も開始。大川(隅田川)と、行徳が臨む江戸川をほぼ一直線で結んだ塩輸送用の行徳運河(全長約9km、新川と小名木川で構成)を、1620(元和6)年頃に完成させます。

「長距離の渡し船」が運航開始

 運河は海とは異なり波もなく、小さな和船でも長い竿1本で安全に物資を運べます。

 太平の世が続き、この運河は関東や東北から巨大都市・江戸へと、大量の物産を運ぶ一大物流ルートに変貌します。同時に、江戸市民の行楽地として、近くの中山法華経寺(市川市)や、成田山新勝寺(成田市)が人気を博すと、参詣客の利用も急増します。

 行徳地区の中心的存在で、塩の江戸運搬を一手に担う本行徳村は、この利権の獲得に動きます。

 1632(寛永9)年、上納金の支払いと引き替えに、江戸~行徳間の旅客輸送事業の独占が幕府に認められると、本行徳村は、日本橋小網町に専用の乗船場「行徳河岸」を開設し、本行徳側の「行徳新河岸(行徳船場)」との間で「行徳舟」の定期運航を始めました。

 行徳舟は「長渡(ながと)船」とも呼ばれ、厳密には江戸~行徳間の長距離を約2時間で結ぶ、定員24人の「渡し船」です。

 単なる運搬船ではなく、幕府が管理する「街道の一部」との理屈で、他者の参入を拒んだようです。幕府にとっても、行徳舟を特定の者に独占させて管理した方が、不審な乗客のチェックなど軍事・治安上都合が良かったのです。

 行徳舟は大人気で、当初16隻だった和船は、最盛期の幕末には62隻に達しました。

明治の元勲「利通」「博文」の既得権益保護策がかえって仇に

 200年以上安泰だった行徳舟は、1868年の明治維新で状況が激変します。明治政府は、関所や飛脚など、前時代的な交通体系を刷新しますが、「渡し船」については、明治の元勲たちを巻き込み、紛糾しました。

 東京と千葉を結ぶ江戸川の渡し船は、江戸時代から千葉(下総)の村々の独占事業でした。

 1869(明治2)年、東京側の村々は規制緩和を東京府、千葉県に求めますが、決着がつかず判断を内務省に仰ぎます。当時の内務卿(内務大臣)・大久保利通は、既得権益保護の立場を示し、後任の伊藤博文もこれを踏襲します。

 結局、1879(明治12)年に、新規参入に関しては、既存者から不満が出た時は参入を認めず、新設航路の場合は、船着場を設置予定の村落から異論がなければ認可、との方針を固めます。

 利根川・江戸川などには、早くも1871(明治4)年に、初の蒸気船「利根川丸」が就航し、その後も「享通丸」「通運丸」「銚子丸」といった蒸気船が次々に長距離航路を開設し、競争が激化します。ちなみに、通運丸を運営する国策会社・内国通運が、今日の陸運業界国内トップを走る日本通運のルーツです。

 当初これらは、短距離を受け持つ行徳舟と競合しませんでした。しかし1876(明治)9年、行徳舟とは船着場が微妙に違うものの、航路がほぼ一緒の和船が参入します。これに対し行徳舟の船頭たちは、既得権を守ろうと新規参入の和船の経営者を夜襲する事件さえ起こします。

 蒸気船との共存も長続きせず、1878(明治11)年に「東行丸」が行徳航路に参入。その後「光通丸」などもこれに続きます。船着場を、行徳舟の本行徳から数百メートル北の下(しも)新宿とするなどの裏ワザで、内務省の方針をかわしたわけです。

 高速の蒸気船の人気は高く新規参入も増える一方で、時代の波に乗り遅れた行徳舟は衰退していきます。そこで遅まきながら行徳舟の船頭たちも、1879(明治12)年に蒸気船「行徳丸」を就航して再起を図ります。

 しかし、皮肉にも行徳丸は、自分で自分の首を絞める結果となります。

 東行丸や光通丸などの蒸気船は、本行徳の船着場への乗り入れを拒否され、仕方なく下新宿に新たな乗船場を設け営業を始めました。すると蒸気船が発着して便利な下新宿は客足が延び、一方の本行徳は閑古鳥が鳴く状況に。行徳丸の登板も空しく、再起は不可能でした。

 その後、行徳~東京間を結ぶ蒸気船ビジネスは、競争激化などがあったものの、順風満帆に思えました。

 ところが1897(明治30)年、総武線が全線開通し、高速で便利な鉄道へと客足が一斉に流れた結果、鈍重な蒸気船は人気を失い、残念ながら昭和始め頃に、旅客営業は消滅してしまったようです。

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