「大衆車を作りたい!」と夢見るも…

 世界的に有名なドイツの大衆車「フォルクスワーゲン」の生みの親であり、自動車メーカーのポルシェ社の創設者として知られているのが、フェルディナント・ポルシェ博士です。

【当時の弾痕まで!】これが「軍用フォルクスワーゲン」です(写真で見る)

 代表作として有名な“ビートル”ことフォルクスワーゲン「タイプ1」は、アドルフ・ヒトラー率いる、ナチス・ドイツ政権の委託を受けて開発されたクルマです。

このほか乗用車から軍用車両まで、フェルディナントは多彩なモデルを手掛けましたが、実はヒトラーと接触する前、もう一人の“独裁者”からもスカウトを受けていました。

 フェルディナント・ポルシェは1875年9月3日、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の小さな村で、ブリキ細工職人の第3子として生まれました。幼少期から好奇心旺盛だった彼は、1893年に家を出て、ウィーンの電気機械メーカーに就職します。

 数年後、フェルディナントはオーストリアの自動車メーカー「ヤーコプ・ローナー」に引き抜かれ、自動車開発の道へと進むことに。最初に開発した「ローナーポルシェ」は、驚くことに電気自動車で、1900年にはパリ万国博覧会でも展示されました。

 その後、彼はローナーポルシェを改良し、発電用のエンジンを搭載した車両を開発します。これは現代のシリーズ式ハイブリッドシステムの原型です。フェルディナントは今から100年以上も前に、ハイブリッドカーを生み出していたのです。

 フェルディナントは1909年、アウストロ・ダイムラー社に移籍し、航空機向けのエンジンや軍用トラクターの開発を行います。このころ、第一次世界大戦で母国のオーストリア=ハンガリー帝国が敗戦。困窮した国民を見たフェルディナントは、価格や維持費の安い、庶民向けの小型車を作りたいと夢見るようになります。

 その一方、フェルディナントはアウストロ・ダイムラー社で、レース用のスポーツカーの開発にも力を注いでいました。

しかし、彼はレーシングカーの開発を巡り上層部と対立。そのまま辞表を叩きつけ、会社を去りました。

 その後、フェルディナントはアウストロ・ダイムラー社の親会社に当たる、ドイツのダイムラー・モトーレン社に移籍。この会社でも、フェルディナントはレーシングカーの設計者として活躍しますが、夢であった大衆車の開発計画が経営陣に否決され、再び会社を辞めることになります。

 フェルディナントは元々から天才気質で、人に合わせることが苦手でした。「これ以上、人に雇われるのは性に合わない」と考えた彼は、自動車の設計とコンサルティングを行う「ポルシェ設計事務所」を1930年に設立。後に世界的なメーカーとなる、ポルシェ社の前身が誕生したのです。

ヒトラーより先に動いた“独裁者”がいた!

 そんなフェルディナントに、ヒトラーよりも先に目を付けた人物がいます。それがソビエト連邦の指導者、ヨシフ・スターリンです。ナチス党がドイツで政権を取る1年前の1932年、ソビエトを訪れたフェルディナントは、スターリンに「国家設計家」としてソビエトに来ないかと打診されたといいます。

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フォルクスワーゲン・タイプ1を基に開発された「キューベルワーゲン」(斎藤雅道撮影)

 国家設計家とは、ソビエトが5か年計画で進めていた、重工業の発展と農業の集団化を推進するためのポストでした。スターリンの打診は、自動車や航空機、戦車、トラクターなどの開発任務を、フェルディナントに任せるという話でした。

 しかし、フェルディナントはこの話を辞退してしまいます。国家の産業発展を担う魅力的な提案ではありましたが、夢であった安価で高性能な小型車や、それまで心血を注いできたレーシングカーを開発したいという希望は、ソビエトではかなえられないと判断したのです。

 そして、フェルディナントは再びドイツに戻り、アドルフ・ヒトラーと出会います。安価な国民車と、国内を走る高速道路網の必要性を感じていたヒトラーは、すぐにフェルディナントと意気投合。こうしてドイツのための“国民車”の開発がスタートし、後にフォルクスワーゲン・タイプ1の原型となる試作車が完成しました。

 ところが量産の目前にして、不運にも第二次世界大戦が勃発してしまいます。クルマの開発と並行し、車両を製造するための工業都市も建設が進んでいましたが、大衆車になるはずだったタイプ1は、軍用車へ転用されてしまいます。またフェルディナント自身も、タイプ1の設計をベースとした「キューベルワーゲン」「シュビムワーゲン」などの軍用車、重戦車などの開発を担当することになりました。

 第二次世界大戦後、フェルディナントはドイツ軍に協力したとして、連合軍に一時拘束されますが、1947年に解放されます。そして戦前にストップしてしまったフォルクスワーゲンの量産も開始されました。

 ほぼ同時期、フェルディナントの息子フェリー・ポルシェにより、ポルシェ社としても初めての量産車「ポルシェ356」の生産が開始されました。しかし、フェルディナントは1950年に脳梗塞を発症し、翌年1月に死去。

両車の生産開始を見届けながら、75年の生涯に幕を閉じました。

 高い技術力・発想力から、ブルガリア王室の特別功労賞や、ドイツの芸術科学国家賞など多数の賞を受賞したフェルディナント・ポルシェは、自動車業界に残した功績の大きさが死後も評価され、アメリカの自動車の殿堂やカーエンジニアオブザセンチュリーなど、さまざまな賞を追贈されています。「天才エンジニア」と呼ばれたのも、うなずける人物でしょう。

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