エリザベス線の心臓部

 東京メトロや住友商事が英国鉄道大手Go-Aheadグループと共同出資する英ロンドンの地下鉄エリザベス線は、遅延・運休が日常茶飯事の欧州で、定時運行率89.5%(2024年度、ロンドン交通局による)と、驚異的な数字を誇っています。今回、筆者(赤川薫:英国在住アーティスト・鉄道ジャーナリスト)は、同路線の車両基地を訪れ、1台が数百万ポンド(数億円)するという本物の運転士育成用シミュレーターを体験してきました。

【緊張】運転シミュレーターを筆者が体験(動画)

 ロンドン西郊にある空の玄関口、ヒースロー空港。エリザベス線は、そこからロンドン中心部を通り、東の郊外へと抜ける新しい路線です。2022年5月の開業から1年で1億5000万人以上が利用し、2023年度には乗客数が延べ2億1000万人を突破しました。ロンドン交通局によると、調査に応じた利用客の9割以上が「地域に良い影響を与えた」と回答し、エリザベス線沿線に5万5000戸の住宅が新築されるなど、同線の快進撃は止まりません。

 その心臓部ともいえるオールド・オーク・コモン車両基地は、ヒースロー空港方面の列車が発着するターミナル駅、パディントンの近くにあります。エリザベス線の全70編成のうち、最大42編成を収容・整備する能力があります。車両基地の南側には2030年に新駅「オールド・オーク・コモン駅」が開業予定で、エリザベス線のほか、ロンドンとイングランド北部を結ぶ新しい高速鉄道「ハイスピード2(HS2)」なども乗り入れる計画です。

 新駅開業後はにぎやかになりそうな車両基地周辺ですが、目下は新駅の工事作業員が行き来する以外は歩いている人もあまりいないような、閑散とした場所です。入り口のゲートは跨線橋や高層マンションの陰にひっそりとたたずんでいます。

「まさか、これが飛ぶ鳥を落とす勢いのエリザベス線の車両基地なのだろうか?」

 そう思ってしまいますが、よく見ると鉄道車両・設備メーカーの「ALSTOM」という小さな標識があり、ゲートの隙間から車両が並んでいるのがかすかに見えます。筆者が訪れた日は、ちょうどヒースロー空港の一つ手前のヘイズ・アンド・ハーリントン(Hayes & Harlington)駅周辺の線路で不具合があり、間引き運転中だったため、いつもより多い40編成近くが待機していました。

競合他社も視察に来る運転士研修

 車両基地には訓練室が4部屋あり、運転士研修が50人ほど同時に実施できるそうです。

当日は、競合他社の視察団が訪れていたのに加え、ベテラン運転士のスキルアップ講座と、運転士見習いの研修が行われていました。

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教官(奥の女性)と新人研修性(赤川薫撮影)

 運転士見習いの研修は、対象者の習熟度合いに応じて進められます。大体、9か月から1年をかけ、合計225時間を本物の運転席そっくりに作られた運転シミュレーターで研修します。

 毎週金曜には確認テストがあり、同じテストに2度落第すると、その時点で失格になります。研修責任者のフォルショ・オルショラ氏は「落第者が出ないように、教師陣は全力で生徒をサポートしている」と何度も念押ししつつ、それでも、2019年から約200人の研修生を見守る中で、「過去に2人が失格になり、運転士の夢を断念した」と残念そうに回顧しました。大切な人命を乗せて運ぶ職業ですから、甘くはないようです。

 車両基地内での研修を無事に修了すると、トレーナーの立ち合いの下で実際の電車を運転する6週間の研修を経て、一人前の運転士となるそうです。

 8週間前に採用されたばかりという研修生らに「実際の鉄道運転と、鉄道ゲームで遊ぶのと何が違いますか」という失礼極まりない質問をあえて投げかけてみたところ、「暗記しなくてはならない項目がとても多い」「昨日、車両基地内で初めて実際の電車を少しだけ動かした。それだけでも緊張で震えた」「全くゲーム感覚じゃない」と、異口同音に悲鳴を上げていました。

運転シミュレーターを体験

 さて、筆者も、実際に研修で使われているシミュレーターに乗り込みました。エリザベス線で使われているアルストム社製の「クラス345型(通称Aventra)」の運転席部分を忠実に再現したものです。1台が数億円するといいます。

 体験させてもらったのは、ヒースロー空港第4ターミナル駅からパディントン駅を通り、ロンドン中心街で高級ブティックが立ち並ぶことで有名なボンド・ストリート駅まで、約30分の区間。そこを実際の運行のように運転するのです。

 同区間の運転の難しさは、乗客が多く、過密ダイヤになっていることだけではありません。欧州全域で採用されている「ETCS」と、主に英国で使われている「TPWS」、そして、過密な都市部で自動運転を可能にする「CBTC」という三つの異なる列車制御システムが混在しているのです。その三つのシステムに対応しているクラス345型の車両をうまく制御しながら、運転中にシステムを切り替える必要があります。

 具体的には「制御システムが変わります」というメッセージが運転席正面のスクリーンに点滅してから1.9秒以内に「認識ボタン」を押す必要があります。と同時に、新しい制御システムの区間に入ったことで、画面上に表示される情報などが一新されるのです。

 1.9秒内にボタンを押し損ねた場合は、列車は緊急停止してしまいます。「制御システムが変わります」というメッセージを聞いてから反応するのでは間に合いません。「合計225時間のシミュレーター研修を経ると、どこで制御システムが切り替わるのか、頭の中に叩き込まれているから大丈夫」と、研修責任者のオルショラ氏は胸を張ります。

大きい「生存確認装置」に苦戦

 私がシミュレーターで運転して四苦八苦したのは、制御システムの違いだけではありませんでした。

 通常、列車には、運転士が急病などで意識を失った場合などを検知する「デッドマン装置」が搭載されています。

1918年に米ニューヨークの地下鉄で発生した事故がきっかけとなり導入され始めた装置で(ニューヨーク・ポストによる)、日本では運転士が手元のボタンなどを押し続けて健在だということを示す形が一般的です。急病などで意識が遠のき握力が緩むと、ボタンから手が浮き、列車が緊急停止する仕組みです。

 エリザベス線のデッドマン装置は、その名称を「不寝番(The Vigilance)」といいますが、これが足元にあります。日本でも、一部の車両で筆箱大の装置を片足で踏むケースが見受けられますが、エリザベス線の「不寝番」装置はとにかく大きく、一般的な体重計より一回り大きいくらいの重たい金属製の板なのです。

 身長164cmと日本人女性としては小柄ではない筆者ですが、その大判の装置を両足でずっと踏み込み続けるだけで、足が痺れます。

 その上、例えば、運転士が減速も加速もせず、60秒間、何も操作をしなかったなどという場合は、「装置を踏み込み続けた状態で具合が悪くなっている」という危険性があるため、運転士に注意喚起をするブザーが鳴ります。ブザーから6秒以内に足元の大判の金属板を両足で「ギッコン!バッタン!」と前後に漕がなければ、これまた列車が緊急停車してしまい、さらにそこから30秒以内にブレーキを解除しなければ列車運行を見張っている指令部でアラームが鳴るようになっています。

 運転士は手元であらゆるレバーやボタンを操作した上で、足元はずっと緊張して力を込める状態の運転を、休憩を挟みつつとは言え、1日平均で約8時間するワケです。ロンドン中心部に入って自動運転になったとしても、この両足での“生存確認”は続きます。その上で定時運行率の向上にも努めなくてはならないのですから、頭脳的にも体力的にもかなり疲労がかさむ職業だと感じました。

 しかし、「合計225時間のシミュレーター研修を経ると、それも、大丈夫」と、研修責任者のオルショラ氏は余裕の笑顔。さすが、競合他社も視察に来る数億円のシミュレーターです。

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