試験走行で故障が続発

 高速鉄道の先駆けとなり、斜陽産業と考えられていた鉄道を復活させた東海道新幹線。列車の脱線や衝突による死亡事故ゼロという「安全性」と、平均遅延1分程度という「信頼性」を背景に、年間60億人以上を輸送する日本の大動脈です。

そんな「夢の超特急」ですが、必ずしも順調な船出だったわけではありません。

【44年間も運用!】これが「元祖」新幹線です(写真)

 東海道新幹線は1950年代に在来線の輸送力逼迫(ひっぱく)への抜本的対策として、全く新しい規格を用いて高速・大量輸送を行う路線として構想されたことに始まります。斜陽とされた鉄道への大規模投資に懐疑的な声もありましたが、東京オリンピックの開催決定が後押しとなり、1964(昭和39)年10月1日の開業に向けて突貫工事で建設されました。

 国鉄は技術的な冒険を避け、在来線での長年の蓄積をベースとして新幹線を開発しました。先行して建設した神奈川の鴨宮モデル線で1962(昭和37)年から走行試験を重ねましたが、世界初の営業運転速度200km/hは未知の部分も多く、試験走行でもパンタグラフの破損、ブレーキ故障、ポイント故障などが続発します。

 開業前後の業界誌にすら、やれ土木技術の権威が「一度、大事故を起こすまで私はもちろん、家族たちも新幹線に乗せない」と言ったとか、国鉄の若い幹部候補生が「技術は信用できるが、列車妨害が起こるだろうから当分は乗らない」と言ったとか、そんな話が出てくるほどでした。

 国鉄は1962年に456人が死傷した「三河島事故」、1963(昭和38)年に281人が死傷した「鶴見事故」を引き起こしています。新幹線の安全対策は、これらの教訓を反映していると説明しても簡単に不安は払拭(ふっしょく)できません。世界では同時期、最新のジェット旅客機の墜落事故が相次いでおり、未知の速度で移動する乗りものは憧れと同時に畏怖の対象でした。

 新幹線はこうした中で開業しましたが、「営業を始めたら全て解決、大絶賛」というわけにはいきません。開業1か月で信号装置故障11件、車両故障12件、車両破損11件など計62件のトラブルが発生し、事故に至らなかった故障は1000件以上にも上りました。大規模なインフラにありがちな「初期故障」とはいえ、世間の不安は払拭されなかったでしょう。

トラブルの1年間から図られた見直し

 1964年12月18日には新横浜~小田原間で架線引留用碍子が破損し、架線が垂下して列車に接触。走行不能となった列車の乗客を、反対側の線路に停車させた車両に移乗して救出しました。現在の東海道新幹線は1編成(16両)あたり2基のパンタグラフを備えていますが、当時の0系は12両編成で6基が必要でした。多数のパンタが高速集電を行うことで架線と相互干渉を起こし、想定以上に疲労劣化が蓄積したことで架線事故、パンタ故障が多発したのです。

 そして迎えた冬、今なお新幹線を苦しめる「雪害」に直面します。1965(昭和40)年1月6日、東京都心で5cm以上の積雪を記録する大雪となり、下り初電が新丹那トンネル出口で3時間立ち往生。直後の列車も雪で床下機器が破損し、6時間ものあいだ動けなくなりました。

 同9日以降は関ケ原で積雪が始まり、列車の窓ガラスが破損したため、2月3日から70km/hの速度規制を開始しました。モデル線は温暖な小田原にあったため、雪が高速運転に与える影響を十分に把握できていなかったのです。

 春が過ぎ、梅雨と台風シーズンが訪れると、新幹線の運行はさらに混乱しました。5月26日には台風6号の影響で沿線全域が100mm以上の大雨となり、各所で築堤の法面崩壊が発生。翌27日は12時25分まで運転を見合わせました。

 6月27日の豪雨では37本が運休となりましたが、3日後に雨の影響で線路が約15mにわたり最大80cm沈下した区間が見つかり、仮復旧のために2時間運転を見合わせるという事態も発生しました。その後も7月5日、7日、13日の豪雨、8月22日の台風17号、9月10日の台風23号、同17日の台風24号など、大雨のたびにダイヤが乱れました。
 開業1年間で発生した数々のトラブルに対し国鉄は、車両や設備の構造変更や保守体制、速度規制など運転方法の見直しを行い、トラブルは徐々に減少していきました。

 同年11月1日のダイヤ改正で、路盤が安定し徐行区間が大幅に縮小したことを受け、当初目標の東京~新大阪間3時間10分運転を開始します。後から思えば最初に「1時間」の余裕を設けたからこそ、無理な運転を避け、段階的な対策を講じることができました。急いては事を仕損じる。一つ方針を間違えていたら新幹線、いや鉄道の歴史は全く変わっていたかもしれません。

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