中央線の快速区間を「2つに割る」案も?

 東京を代表する通勤路線といえば中央線でしょう。1889(明治22)年の新宿~立川間開業から始まり、1904(明治41)年に御茶ノ水まで乗り入れると電車運転を開始。

中野~御茶ノ水間を6分間隔、28分で結んだことで中央線から都心への電車通勤が可能になり、沿線の住宅化を促進しました。

【幻のルート】中央線「都心乗り入れ」3案を見る(路線図)

 第一次世界大戦の戦争特需で日本経済が成長し、東京の都市化が進むと、中央線の輸送人員は大正期の15年間で10倍以上に増加しました。電車の編成両数も単行から5両へと増強されますが、昭和初期になると7両編成・最短2分30秒間隔の運転でも輸送力が不足するようになり、抜本的な改善が必要となりました。

 中央線は1928(昭和3)年に中野~飯田町(1933年旅客営業廃止、1999年貨物営業廃止)間を複々線化し、貨客分離していましたが、これを御茶ノ水まで延長して1933(昭和8)年に急行電車(現在の快速電車)の運転を開始しました。当初は朝夕ラッシュのみの運転でしたが、東京~中野間は約8分短縮となり、中央線沿線の郊外化はさらに加速しました。

 戦後の中央線は混雑がさらに激しくなります。住宅不足の人々が武蔵野台地に一斉になだれ込み、中央線の沿線人口は1935(昭和10)年から1955(昭和30)年にかけて4倍以上に増加。ラッシュ時の輸送人員も年8%というハイペースで増加し、このままでは1960(昭和35)年に中央線はマヒ状態に陥ると予測されました(実際に1961年に問題化しました)。

 国鉄は快速線に新型101系電車を投入し、運転間隔を2分まで短縮、新宿駅での交互発着実施といった輸送力増強策を進めましたが、実は問題は緩行線にありました。当時のデータによると、中央線新宿以東の利用者は6割が神田・東京方面、1割が総武線方面に流れ、残りが途中駅で下車していました。

 緩行線も「都心」に向かえば旅客の一部が転移し、快速線の混雑緩和が実現できます。最もシンプルな解決策は御茶ノ水~東京間を複々線化し、緩行線も東京駅に乗り入れる「併設案」です。

 あわせて四ツ谷付近の快速線と緩行線の立体交差構造を廃止し、快速線は中野~四ツ谷間で快速運転、緩行線は四ツ谷~御茶ノ水間で快速運転を行い、所要時間を均衡化するアイデアもありました。

奇抜な「6の字」案

 検討の過程では奇抜な案も存在しました。それが1955年頃に検討された「ループ案」です。これは神田付近から快速線を地下化して有楽町、霞ケ関、赤坂見附経由で信濃町に接続し、6の字型の線路を構成します。

 快速は信濃町から御茶ノ水経由で東京へ行き、東京から各駅停車として有楽町経由で信濃町に戻り、緩行線を走ります。逆に各駅停車は有楽町経由で東京へ行き、東京から快速として新宿に向かいます。総武線は信濃町折り返しとなり、信濃町~御茶ノ水間で各駅に止まります。

 東京駅を2面4線化して通過駅とすることで交互発着が可能になり、運転間隔を短縮できます。また赤坂見附、霞ケ関など新たなエリアをカバーしつつ、有楽町へ直行するため各駅停車に誘導可能です。日本では類例のない意欲的な案でしたが、大規模工事が必要になる反面、完成まで輸送力は増加せず、また運行形態が分かりにくいことから見送られました。

 そこでループとせずに信濃町から有楽町経由で神田まで新線を建設し、各駅停車は南回りで神田折り返し、快速は北回りで東京折り返し、総武線は信濃町折り返しの「短絡案」が登場。さらに発展させ、新線を総武線方面に延伸して錦糸町手前で乗り入れる「中央総武南縦貫案」も登場しました。

 各駅停車は新宿から、既存の御茶ノ水経由、新線の有楽町線経由の2ルートで総武線と直通し、カバー範囲を拡大することで転移を促します。また快速線(錦糸町~東京)開業前で、都心に乗り入れていなかった総武線の輸送改善も同時に実現しようというものでした。

 しかし赤坂見附から霞ケ関、有楽町を経由するルートは同時期に整備された地下鉄4号線(丸ノ内線)と重複しており、有楽町付近のビル街の通過に工費と工期がかかるため、こちらも見送りとなりました。

代わりの「北案」はどうだ?

 それでも中央線と総武線の接続は国鉄にとって魅力的なアイデアだったので、代案として市ケ谷から呉服橋(大手町)、日本橋経由で総武線に乗り入れる「中央総武北縦貫案」が検討されました。

 問題は地下鉄整備計画との整合でした。九段下~茅場町付近は地下鉄5号線(後の東西線)と重複しており、既存の地下鉄計画を無視して国鉄が独自の地下線を建設することには問題があります。しかし国鉄は「5号線は収益が少ないため営団、都に関心がない」(当時の国鉄資料)と判断し、国鉄が直通規格で5号線を建設する「5号ルート案」を検討しました。

 しかしこれも調整事項が多いため、最終的に1958(昭和33)年にオーソドックスな「併設案」に決定しますが、千代田区や沿線から反対の声があがり、行き詰ってしまいました。

 そんな国鉄に手を差し伸べたのは営団でした。1957(昭和32)年の都市交通審議会答申第1号以降、郊外路線との相互直通が原則となったことから、1960年に中央線との直通運転を国鉄に打診。営団の費用負担で都心直通が実現するという、願ってもない「渡りに舟」のような提案にトントン拍子で話は進み、現在の運行形態に決まったのでした。

 総武線の都心直通はその後、複々線化とあわせて錦糸町から別線を建設し、東京駅に乗り入れる形で実現しますが、選択次第では中央線、総武線とも全く違う形になっていた可能性があったのです。

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