台湾出身の優秀な者が少年工として従事

 東名高速の“渋滞ポイント”として名高い神奈川県大和市の「大和トンネル」。その南側には広大な公園「ふれあいの森」が広がっています。

市民の憩いの森の一角に、不思議な形のお堂、もとい「休憩スペース」がたたずんでいます。

【派手!】これが大和トンネル近くの「台湾式休憩スペース」です(画像)

 赤く塗られた建屋と六角形の瓦屋根という派手な意匠の休憩スペースは「台湾亭」と呼ばれます。これは台湾出身の少年工の慰霊を目的に建てられたもの。この地で何があったのでしょうか。筆者は以前、この地で働いていた台湾の古老にも話を聞きました。

 1941年12月の「真珠湾攻撃」の後、戦線は徐々にアジア全域にまで拡大すると同時に、日本国内では労働力不足が深刻化しました。これを解決するために、当時日本統治下にあった台湾から主に戦闘機製造に従事する少年たちが募集されました。

 1943年、神奈川県の大和市・座間市・海老名市にまたがるエリアに「高座海軍工廠(海軍航空兵器製造工場)の建設がスタートし、並行して12~19歳までの台湾出身の「少年工」と呼ばれる少年たち(最大約8400人)が、ここで働きました。

 台湾出身の「少年工」たちは無理やり日本に連れて来られて従事させられたわけではありません。食費や生活費は公費から賄われたほか、もちろん給料も支給。この「海軍航空兵器製造工場」で働きながら学ぶことで、旧制工業中学校の卒業資格を得られました。

 また、「高座海軍工廠」は後には「日本最大の航空機隊工場」になる予定もあり、将来的には航空技師への道も開かれていました。

実際、この地で働くことを志す台湾の少年たちの中でも、優秀な者しか従事できませんでした。

 ちなみに筆者がたまたま台湾旅行中に出会った、元少年工の台湾人(現:94歳)の方から「うちの村からは、私しか工場に行くことができなかった。日本は寒かったですよ」と流暢な日本語で話を聞いたことがあります。

 この「高座海軍工廠」で製造されたのは厚木海軍飛行場に配属された伝説の局地戦闘機、雷電。正式に工場が完成したのは1944年でしたが、やがて戦局が悪化します。1945年7月には現在の大和市内の山林で空襲を受け6名の台湾出身の少年工が犠牲となったほか、市内地でも10名が攻撃を受けて亡くなりました。

 前述のように、就労条件は良かったものの、過酷な環境であったことは確かです。特に食糧不足や、前述の元少年工の方の証言通り「寒さは深刻だった」と言われています。

戦後世相が混乱する中でも立派だった少年工たち

 やがて終戦になると、各地から大和の少年工が暮らす寄宿舎に集められ、台湾出身の少年で一杯になりました。世相が混乱する中でしたが、ここでも少年工たちは年長の指導者を中心に、役割分担をしながらまとまり秩序を守り集団生活をしていたそうです。後に、その多くは犠牲になった少年工の遺骨や負傷者と付き添い人から順に台湾へと帰って行ったといいます。

「雷電」を作った少年たちを忘れない――東名高速の「渋滞名所」...の画像はこちら >>

「ふれあいの森」すぐ近くの善徳寺にある「戦没台湾少年の慰霊碑」(2023年、松田義人撮影)

 また、帰国した少年工の一部は工場の卒業証書を受け取り、台湾へと持ち帰ることができたものの、多くの人たちは得られなかったともいわれています。

しかし元少年工たちは、大和の工場で習得した技術・精神力をさらに昇華させ、台湾の工業化の中核として活躍した人も多く存在します。

 後には、日本の大和で苦楽をともにしたことを懐かしく思い、「高座海軍工廠」の名にちなんで「高座会」という同窓会が結成されます。中には、少年工時代に交流のあった日本人との友情を生涯大切にする人もいました。

 そして、この「高座会」の元少年工らが、この地で亡くなった同士への鎮魂と平和への想いを込めて、1997年に「ふれあいの森」の一角に「台湾亭」を建設しました。その費用は約2000万円と言われ、工費は関係者や少年工への敬意を持つ日台の人々からの寄付で賄われたといいます。

 あの雷電製造に従事した台湾出身の少年工たちの思いが詰まった「台湾亭」は、日本と台湾の絆を深めた舞台の一つであると言って良いでしょう。「ふれあいの森」に近く大和トンネルに隣接した善徳寺には「戦没台湾少年の慰霊碑」もあります。

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