延長36.2km「京成版京葉線」計画とは

 日本を代表するテーマパークである東京ディズニーランド。運営会社のオリエンタルランドが京成電鉄の出資で設立された会社であることは、鉄道ファンには有名な話でしょう。

かつて京成はこのエリアに鉄道路線を構想し、実際に免許を出願しています。「京成版京葉線」とも言うべき計画は、どのようなものだったのでしょうか。

【路線図】「京成新線」の推定ルート

 京成グループと京葉地域埋立地の関わりは、京成の出資で1953(昭和28)年に設立された「朝日土地興業」が、船橋市東海岸12万坪、船橋湊付近50万坪を埋め立てたことに始まります。埋立地から湧出した温泉と天然ガスを活用して1955(昭和30)年に開業したのが、現在の「ららぽーとTOKYO-BAY」の位置にあった温泉娯楽施設「船橋ヘルスセンター」です。

 千葉県は1954(昭和29)年開業の川崎製鉄千葉製鉄所(現・JFEスチール東日本製鉄所)、1957(昭和32)年開業の東京電力千葉火力発電所など、京葉地域の埋め立てを推進していましたが、1958(昭和33)年に「京葉工業地帯造成計画」を策定し、事業の拡大を決定しました。

 千葉県の動きに対応して京成、三井不動産、朝日土地興業(1970年に三井不動産と合併)は1960(昭和35)年、共同出資により「オリエンタルランド」を設立し、浦安沖に住宅分譲とあわせて「ディズニーランド方式」の遊園地開発を計画しました。浦安地区259万坪の埋め立て造成事業を1962(昭和37)年に受託し、事業に着手しました。

 そしてオリエンタルランドと一体的に計画され、1964(昭和39)年8月18日に免許申請したのが、鉄道の「東陽町・千葉寺間新線」です。名称は特に決まっていなかったようなので、以降は便宜上「京成新線」と表記します。

『京成電鉄五十五年史』によれば、この京成新線は東陽町から砂町、オリエンタルランド、船橋港、谷津、稲毛海岸、千葉港を経て千葉寺に至る全長36.2kmの路線です。千葉寺からは京成グループの小湊鉄道が免許を保有していた本千葉~海士有木間新線(一部が1992年に千葉急行電鉄線として開業)に直通する計画でした。

 起点が東陽町ということで営団5号線(東西線)と直通運転を目指していたと語られることがありますが、国立公文書館の運輸省文書を確認すると、軌間は既存の京成線と同じ「1435mm」と明記されています。

『五十五年史』の添付図も京成新線と5号線の位置を明確に変えて描写しています。

 時系列からも直通計画はなかったことが分かります。帝都高速度交通営団が発足時に保有した免許は、いずれも軌間は銀座線と同じ1435mmでしたが、1957(昭和32)年の都市交通審議会答申で相互直通運転方式の導入が決定したため順次、1067mmに変更されました。

 東西線については1961(昭和36)年8月1日に直通運転を前提とした規格の採用を国鉄に打診しており、早くも同21日に軌間の変更を含む「起業目論見変更書」を届け出ています。交通営団は1962(昭和37)年12月23日に国鉄と直通運転に合意し、1964(昭和39)年4月9日に東陽町~西船橋間の免許を申請しているので、京成新線の出る幕はありません。

「そういう意味もあって申請を出したんです」

 京成新線のライバルは、国鉄が計画していた京葉線でした。京葉線は1961(昭和36)年の鉄道敷設法改正で建設予定線になると、1964(昭和39)年9月に工事線となりました。京葉線は貨物専用線の位置付けですが、将来的に旅客列車の運行も想定していました。京成が同年8月に免許申請したのは、国鉄の動きを牽制(けんせい)したものだったことが見えてきます。

 川崎社長は1965(昭和40)年に発行されたインタビュー本『これからの京成』で、「国鉄では、なんの話もしないで、京成がいきなり申請を出したというふうに言っておることも耳にしたんですが、われわれとしてはずっと以前から計画していたことだし、話し合いというのは申請を出しておいてからやってもいいんじゃないかと思うんです」と述べています。

 2年後に編纂された『五十五年史』は、「当社の東陽町・千葉寺間、交通営団の東陽町・西船橋間、臨海鉄道〔京葉線〕、モノレール〔日本エアウェイ開発出願線〕など幾つかあります。しかし、これらを併設することは国家的に見て不経済ですから、統合するか或いは譲り合ってよい線を1本敷設したらよいと思います」と記しています。

軌間1435mmを前提とすれば京葉線との線路共用も不可能ですから、貨物専用線の京葉線に並行する形で京成新線を敷設する可能性を探っていたことが分かります。

 結局、京成は1968(昭和43)年9月24日、都合により免許申請を取り下げしたいと申し入れ、京成新線は幻となりました。同年10月には都市交通審議会が答申第10号を発表していることから、審議の過程で成算の見込みがないことが明らかになったからと考えられます。

 取り下げにより免許申請書類は返付されたため、詳細を示す史料は残っていません。東陽町から先の輸送をどのように考えていたのか、至近距離を並行する京成千葉線と京成新線が共存できたのかなど、謎は残ります。

 川崎社長は前掲書で「第二国際空港がもし冨里〔実際の成田空港からやや東京寄りの初期案〕あたりに出来れば、船橋あたりから空港まで鉄道をつけると、近道になるわけです。そういう意味もあって鉄道建設の申請を出したんです」と述べており、空港アクセス路線としての活用まで考えていたことが伺えます。京成新線が実現していたら、京成の路線網や運行形態は史実とは大きく異なっていたことでしょう。

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