小田急小田原線は、東京都と神奈川県の境を何度も越えます。その数、実に11回。
東京都の新宿駅と、神奈川県の小田原駅を結ぶ小田急電鉄小田原線。特急「ロマンスカー」も大人気のこの路線には、不思議があります。
小田急小田原線の「都県境連続区間」(地図の都県境6~8)。高台の歩道から特急「ロマンスカー」をはじめ様々な車両を見られる(2018年7月、栗原 景撮影)。
それは、東京都と神奈川県の都県境を何度も越えること。その数、実に最大11回。和泉多摩川~相模大野間で、下り線は9回、上り線は11回も都県境を越えるのです。特に、柿生~鶴川間では3回、鶴川~玉川学園前間では4~6回も東京都と神奈川県を行ったり来たりしています。
ひとつの鉄道路線が、同じ都県境を11回も越える……。全国的にも珍しいこの現象は、どのようにして生じたのでしょうか。
これには、多摩地区の歴史が関係しています。
江戸時代、この辺りは多摩郡と都筑郡に分かれ、たくさんの村がありました。明治維新後、廃藩置県によってこれらの村はいったんすべて神奈川県となります。ところが1893(明治26)年、多摩郡を分割した三多摩地区(北多摩、西多摩、南多摩)が、神奈川県から東京府に移管されました。これは、東京の水源が多摩地区にあることから、その管理を効率的にするためだったともされています。

東京・神奈川都県境を何度も越える小田急小田原線。登戸から町田までを最短で結ぶルートが取られた(栗原 景作成)。

9か所もの「都県境」がある柿生~玉川学園前間。岡上地区と三輪地区の複雑な形と歴史的経緯が「小田急線都県境の謎」を生んだ(栗原 景作成)。

鶴川駅周辺の自転車等放置禁止区域の地図も複雑極まりないことに。赤い一点鎖線が都県境で、上が東京都町田市、下が神奈川県川崎市麻生区(2018年7月、栗原 景撮影)。
南多摩郡と都筑郡は、丘陵地帯という地形や、村同士の結び付きなどから境界が入り組んでいたため、その境界を引き継いだ東京府(東京都)と神奈川府の境も複雑な形になりました。
1927(昭和2)年、この地に小田原急行鉄道、現在の小田急電鉄が開業します。それまで開業した鉄道の多くは、東海道や甲州街道など、古くからの街道に沿って建設されていましたが、小田急小田原線は基本的に既存の街道に頼らず、東京から町田、厚木、伊勢原、小田原といった都市を直結する画期的な高速鉄道でした。この小田原急行鉄道が、東京から町田への最短ルートとして南多摩郡と都筑郡の境界付近を通過することになったのです。
飛び地と鶴見川が都県境を複雑に2018年7月の平日、柿生~玉川学園前間の9つの都県境を見るべく、柿生駅から小田急線に沿って歩いてみました。

東京都道・神奈川県道3号線の標識から分かりやすい都県境2。当初の計画では、柿生駅、鶴川駅の代わりにここに駅が設けられる予定だった(2018年7月、栗原 景撮影)。

真光寺川の橋に位置する都県境3。高度経済成長時代にドブ川だった真光寺川は清流を取り戻しつつある(2018年7月、栗原 景撮影)。

鶴川駅のすぐ東にある都県境4。ちょうど信号機の辺りが都県境(2018年7月、栗原 景撮影)。
柿生駅は、川崎市麻生区にあります。駅前広場のない北口から東京都道・神奈川県道3号線に沿って5分ほど歩くと、最初の都県境(地図の「都県境2」、以下同)が現れます。
線路の南側には、三方を川崎市と横浜市に囲まれた町田市三輪地区があります。地図で見るとほとんど飛び地のように見え、都県境を複雑にしている要因のひとつです。隣には、やはり川崎市の飛び地となっている岡上地区。ここは江戸時代に多摩郡(多磨郡)から都筑郡に移った村です。岡上村が都筑郡に移ったため、三輪は飛び地のようになりました。三多摩が東京府に編入された際には、三輪の住民が都筑郡への編入を政府に陳情しましたが、東京府は「地形上、三輪は南多摩郡にあった方が便利」と反対し、実現しませんでした。

鶴川駅西側の都県境5。昭和末期まで、鶴見川はこの辺りを流れていた。手前の柵は神奈川県、右の民家は東京都に位置している(2018年7月、栗原 景撮影)。
鶴見川の支流である真光寺川で神奈川県に戻った(都県境3)小田急線は、鶴川駅手前で再び東京都に入ります(都県境4)。
小田急線都県境のハイライトが、鶴川~玉川学園前間のうち、わずか120m区間に連続する5つの都県境です(都県境6~10)。ここでは、小田急線が都県境を越えているというよりは、都県境の方が鉄道用地上を蛇行しており、上り線の部分だけをまたいでいる部分もあります。

複数の都県境を1枚の写真に収められるマニアックな都県境9~10。川崎市麻生区の岡上地区は丘陵地の営農団地もあり散策にお勧め(2018年7月、栗原 景撮影)。
小田急線は、なぜここを通っているのでしょうか。それは、野津田村(現在の町田市の一部)出身の政治家、村野常右衛門の力が働いたためといわれています。
村野常右衛門は明治から大正にかけて活躍した政治家のひとりで、自由民権運動などを通じて、小田原急行鉄道創始者の利光鶴松とも長年の親交がありました。小田急線建設時にはすでに一線を退いていましたが、鉄道用地の買収でも地主とのあいだに立つなど、大きな影響力を持っていました。
小田原急行鉄道は、当初の計画では柿生駅からまっすぐ南下、岡上地区を縦断して町田方面に向かう予定でした。
この「都県境連続区間」は、高台になっている線路北側から眺めることができます。線路上に都県境は描かれていませんが、見晴らしの良い絶好のトレインビュースポット。鶴川駅周辺にはカフェや居酒屋も多く、手軽な散策に好適です。
長い歴史から生まれた複雑な都県境と、都市間を最速で結ぶため、既存の街道筋にこだわらずに敷かれた高速鉄道。ふたつの歴史が絡み合い、世にも珍しい「都県境を何度も何度も越える鉄道路線」が誕生したのです。
【写真】道路の舗装に現れた都県境

鶴川~玉川学園前間の踏切。手前の舗装の切れ目が都県境で、奥が川崎市、手前が町田市。道路補修もきっちり自治体単位で行われているようだ(2018年7月、栗原 景撮影)。