カルロス・ゴーン氏が、窮地に陥っていた日産の最高執行責任者(COO)に就任したのは1999年のことでした。それからおよそ20年、両者がたどった足跡を振り返ります。

ゴーン氏逮捕の衝撃走る

 2018年の日本自動車業界における最大の話題は、11月19日の「日産の会長であるカルロス・ゴーン氏の逮捕」でしょう。しかし、発生から1か月たった12月下旬の現在でも、事件の詳しい全貌は見えてきません。この後も、法廷を舞台にした争いが長期化する可能性さえあります。

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2015年9月、フランクフルトモーターショーでの記者会見に臨むカルロス・ゴーン日産前会長(画像:日産自動車)。

 まさかの展開となったゴーン氏と日産自動車ですが、これまで両者はどのような道を歩んできたのでしょうか。そのおよそ20年間を振り返ってみようと思います。

窮地に陥っていた日産、変革の第一歩は1999年

 1998(平成10)年の日産は、まさにジリ貧と呼べる状況でした。国内シェアは20年以上も下降線。世界シェアも90年代に入って落としており、1991(平成3)年以降の8年間で7度の赤字。自動車関連事業の有利子負債は、90年代を通してつねに2兆円を抱え、1998年には2兆1000億円が残っていました。また同年の世界生産台数は255万5962台でした。

 そのような窮地に手を差し伸べたのが、フランスの自動車会社、ルノーでした。

1999(平成11)年3月に、日産とルノーのあいだでグローバルな提携契約が結ばれ、ルノーが6430億円(約50億ユーロ)を出資して日産と、日産ディーゼルの株式を取得。日産が事実上、ルノーの傘下となります。そして、ルノーからはカルロス・ゴーン氏が最高執行責任者(COO)として派遣されます。ゴーン氏は、ルノーやフランスのタイヤメーカーであるミシュランなどで、業績が悪化した工場の立て直しなどを手掛けてきており、「コストカッター」と呼ばれる、再建のプロだったのです。

 日産にやってきたゴーン氏は、来日後わずか数か月となる1999年10月に、再建プランである「日産リバイバル・プラン」を発表します。これが驚きの計画でした。たった3年で、コストを1兆円削減、有利子負債を半分にするというのです。その内容は苛烈です。5つの工場を閉鎖し、人員を2万1000人削減、取引サプライヤー(部品供給メーカーなど)も半減するというものでした。

奇跡のV字回復、再生から成長へ

 そして「日産リバイバル・プラン」は、目覚ましい成果を挙げます。なんと、翌2000(平成12)年度の決算において、過去10年間で過去最高の連結当期利益3311億円を発表。販売台数も前年比+4%の263万台へ増加します。

世間をあっと驚かせる、V字回復を実現しました。そして、計画の1年前倒しとなる2002(平成14)年3月に、ゴーン氏は「日産リバルバル・プラン」の完了を宣言してしまったのです。

カルロス・ゴーン時代の日産を振り返る どん底からスタートした約20年の足跡とは?

2002年発売、Z33型「フェアレディZ」(画像:日産自動車)。

 2001(平成13)年に日産の最高経営責任者(CEO)へ就任したゴーン氏は、2002年に「日産リバイバル・プラン」を終了させた後、次なる3か年計画を発表します。それが2002年発表の「日産180」です。「180」という数字にはもちろん意味があり、「1」は2004(平成16)年末までに世界の販売台数を100万台増やす、「8」は営業利益率を業界最高水準である8%以上に、「0」は有利子負債をゼロにするという目標でした。

「日産リバイバル・プラン」は、文字通り「日産の再生」ですが、そのままでは元に戻るだけです。成長のための道筋が必要です。その計画が「日産180」でした。注目は2003(平成15)年、中国における自動車生産を目的として東風汽車を設立したことです。当時の中国は、いまのような自動車大国にはなっていませんでしたが、将来的に成長するのは確実と見られていた時期。これが後の、中国市場における日産の成功の土台となりました。

 また2002年には、「マーチ」「ムラーノ」「エルグランド」「フェアレディZ」「モコ」といった、人気車種の新型モデルを数多く発表。成長に勢いをつけます。2004(平成16)年から2005(平成17)年にかけての、1年間のグローバル販売台数は367万1000台を記録。2005年10月には、「日産180」に掲げた「100万台販売増加」という目標を達成してしまったのです。

さらなる成長とリーマンショック

 右肩上がりの成長を続ける日産は、2005年に次なる計画「日産バリューアップ」を発表します。目標は、2008(平成20)年度のグローバル販売台数420万台です。ちなみに、このときまでに有利子負債はゼロになっており、2004年末の時点で2000億円のキャッシュを有するようになっていました。また、世界市場での日産の存在感を高めるため、「インフィニティ」を一流のラグジュアリー・ブランドとして世界各地に投入することも発表されました。

 2005年5月からゴーン氏は、日産だけでなくルノーのCEOも兼任するようになり、日本とフランスだけでなく、世界各地を飛び回る毎日となりました。

カルロス・ゴーン時代の日産を振り返る どん底からスタートした約20年の足跡とは?

2007年発売、R35型「GT-R」(画像:日産自動車)。

 2007(平成19)年には、日産のスポーツマインドの象徴とでもいうべきクルマがデビューします。「GT-R」です。

ゴーン氏は、リストラ請負人と言われながらも、「フェレディZ」(2002年)や「GT-R」「スカイライン」(2001年)といった、日産の伝統的なモデルを存続させた経営者でもあったのです。

 順調な成長を続けてきた日産に冷や水を浴びせかけたのが、2008年のリーマンショックでした。日産は、ちょうど「GT2012」という5か年計画を進めていましたが、すぐさま計画を凍結。生産縮小や報酬カットなどを実施します。結局、2008年の世界販売台数は、前年比9.5%減の341万1000台に。当期純損失2337億円となります。ただし、アメリカのビッグ3(GM〈ゼネラル・モーターズ〉、フォード・モーター、クライスラー)のうち、GMとクライスラーの2社が破綻したことを鑑みれば、比較的、軽傷で済ますことができたのではないでしょうか。

 ちなみに、「GT2012」の一部であった「EVの開発」は継続されており、日産は2010(平成22)年に、電気自動車である「リーフ」を世に送り出します。またこの年、「マーチ」は新型になりますが、驚いたのは、生産が日本からタイに移されたことです。「マーチ」は、よりグローバルな存在となった一方で、日本国内での販売に苦戦することになります。さらに同年、日産・ルノーのアライアンスは、ダイムラー(ドイツ)との戦略的提携を発表。小型車(「スマート」「トゥインゴ」など)の共同開発や、エンジン類の相互提供、小型商用車での提携などを行うことになりました。

現在、インフィニティにダイムラーのエンジンが搭載されているのは、この提携が理由です。

試練の2011年を乗り越えて

 翌2011(平成23)年は、日産をはじめとした日本の自動車メーカーにとって試練の年となります。東日本大震災とタイの洪水です。日産においては、事故を起こした福島第一原子力発電所のすぐ近くにある、福島県いわき市の工場が大きな被害を受けます。また10月のタイの洪水では、現地の日産工場への被害はなかったものの、サプライチェーンが被害を被った影響から、1か月ほど生産が中断されました。

 その2011年に、日産は新たな計画を発表します。それが「日産パワー88」です。これは2011年から2016年までの6年計画で、「世界シェア8%」「利益率8%」を目指すというものでした。しかし、残念ながら2016年度の結果を見ると、どちらも6%代に留まり、目標をクリアすることはできませんでした。

 とはいえ日産の、2016年度における世界市場での販売台数は562万6000台(2010年度比+35%)、売上高は12.8兆円(同+45%)と、業績自体はしっかりと伸ばすことに成功しています。

三菱自動車を加えアライアンスは世界の頂点へ

 日産は2012(平成24)年、「ラーダ」ブランドを販売するロシア最大の自動車メーカーであるアフトワズに出資。さらに、2016年には三菱自動車にも出資。

アライアンスは、ルノー・日産・三菱自動車という新たな形となりました。

 2017年に上記アライアンス3社が、世界200国で販売するのは、「ルノー」「日産」「三菱自動車」「ダチア」「ルノー・サムスン」「アルピーヌ」「ラーダ」「インフィニティ」「ヴェヌーシア」「ダットサン」という10ブランド。販売台数は2017年で1060万8366台にもなりました。これは、フォルクスワーゲン・グループには届かなかったものの、トヨタを上回るという数字。ただし、3者の差はわずかに数十万台です。ルノー・日産・三菱、フォルクスワーゲン、トヨタの3者が世界トップを争うという状況になっていたのです。ちなみに日産単体でいえば、2017年は過去最高の577万台。1998年の2倍以上の台数です。

カルロス・ゴーン時代の日産を振り返る どん底からスタートした約20年の足跡とは?

2018年上半期、7万3380台を販売し、国内の登録車販売数1位を記録した「ノート」(画像:日産自動車)。

 カルロス・ゴーン氏がやってきた1999年の日産は、いまにも潰れそうなジリ貧の会社でした。それが約20年をかけて再生・成長を遂げ、気がつけば世界のトップを伺えるところまできたのです。こうした成功は、やはりゴーン氏がいなければ、なし得るものではなかったはず。経営者としては超一流。それがカルロス・ゴーン氏ではないでしょうか。

【写真】いろいろな意味で話題になった2001年発売V35型「スカイライン」

カルロス・ゴーン時代の日産を振り返る どん底からスタートした約20年の足跡とは?

前モデルであるR34型から大きく変貌をとげた、2001年発売のV35型「スカイライン」。あまりの変貌ぶりに当時、さまざまな意見が噴出した(画像:日産自動車)。

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