東京都目黒区に、戦艦「大和」建造に関わったかもしれない旧海軍の巨大な施設が現存、防衛装備庁がいまなお使用しています。建造されておよそ90年、現役であり続けるのにはもちろん理由があります。

戦艦「大和」建造と海のない目黒の接点とは?

 旧日本海軍の戦艦「大和」が、広島県の呉市で建造されたことはよく知られています。これを建造した巨大施設の一部は2019年のいまも現存し、在りし日の「大和」の大きさを想像させてくれます。

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目黒の住宅街にひときわ目立つ防衛装備庁艦艇装備研究所の、大水槽棟の長い屋根(画像:防衛装備庁)。

 一方、東京の目黒区にも「大和」建造に関わった“かもしれない”巨大施設があります。航空写真で見ると、JR恵比寿駅から南西部にひときわ目立つ細長い屋根の大きな建築物があるのがわかりますが、これは防衛装備庁艦艇装備研究所の「大水槽棟」で、かつて同じ場所に海軍技術研究所が置かれていたころからある施設です。艦船模型を実際に水槽に入れて走らせ、流体力学的な性能評価を実施しています。

目黒の住宅街にある大屋根の正体 戦艦「大和」も実験か 旧海軍施設なぜいまも現役?

1936年に撮影された航空写真。大水槽棟の大屋根が見える(国土地理院の航空写真を加工)。
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大水槽棟の入り口(画像:防衛装備庁)。
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大水槽棟入り口の木の看板(画像:防衛装備庁)。

 敷地の入り口から大水槽棟を見ても、ちょっと大きな工場か体育館ぐらいにしか見えません。しかし中に入ると、その奥行きに圧倒されます。

屋内の水槽は長さ247m、幅12.5m、深さ7mの大きさがあり、最大速度8m/s(28.8km/h)で走行する曳引車(えいいんしゃ)が模型を曳航します。模型とはいっても長さ3mから6mにもなり、ちょっとした小船ぐらいのサイズです。

 この水槽には波長(波の山から次の山〈あるいは谷から谷〉までの距離)0.5mから20m、波高0.4mまで発生させられる造波装置があり、人工的に造った波の中での船体動揺を計測することもできます。深さが7mもあるので、潜水艦(模型)のような水中体も水面の影響を受けることなく実験できる施設です。

水槽の上を走る「電車」

 模型を曳航する曳引車は、長い水槽をまたぐ鉄橋のような設備で、通称「電車」と呼ばれているそうです。その名の通り、運転台には右手にブレーキハンドルやエアコンプレッサーの圧力計などがあり、電車の運転台のようです。前に見える光景も、トンネルや地下鉄内を走っているよう。ただ、速度を制御するのはマスターコントローラー(マスコン)ではなく、制御盤のダイヤルでした。

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内部の水槽。水面に天井が映りこんでいる(画像:防衛装備庁)。
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造波装置で造った波に対する消波板(画像:防衛装備庁)。
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1930(昭和5)年の、建設当時の姿を残す鉄骨(画像:防衛装備庁)。

 この「電車」には、模型を撮影するカメラ、照明装置、模型の挙動を図る精密検査機器が満載されています。また万一の落水事故に備えて、赤い救命浮き輪も備えられていますが、過去、実際に落水した人がいるのかはわかりません。

 施設は古びて見えますが、いたるところで、精密に作られそれが維持されていることがうかがえます。「電車」こと曳引車が走るレールは車輪とぴったりと接触し、走行時の振動が抑えられるよう毎日磨かれています。また水槽内の水は実験条件を維持するため、建設当時から入れ替えられていません。戦災で屋根が失われていた時期もありますが、自然蒸発ぶんしか給水されていないため、建設当時の水がまだ4割くらい残っているといわれています。内部の温度、湿度もなるべく一定に保たれるように管理されています。

 2011年3月11日の「東日本大震災」では、地震で水槽に発生した波を撮影、計測しデーターとして残すこともしました。

海がない目黒の海軍施設

 旧日本海軍を代表する戦艦「大和」は、日本の技術の粋を集めた軍艦で、設計・建造に当たっては技術的に未知の分野も多く、様々な実験が行われました。1935(昭和10)年ごろにこの施設の水槽で実験を繰り返し、艦型を決めたといわれていますが、それを裏付ける書類などはどこにも残っていません。「大和」関係資料は敗戦時に多く処分されてしまっており、現在のところ、この施設で実験されたか否かは確認することができないのです。

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水槽上の鉄橋のような構造物が「電車」と通称される曳引車(画像:防衛装備庁)。

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曳引車の運転台。電車のようなブレーキハンドルがある(画像:防衛装備庁)。
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毎日磨かれる曳引車が走るレール(画像:防衛装備庁)。

 JR恵比寿駅に近い閑静な地域にある「海軍施設」の歴史は、1857年に江戸幕府が砲薬製造所を建設したところから始まります。同施設はその後、1885(明治18)年に明治政府の海軍火薬製造所になり、1930(昭和5)年には海軍技術研究所が築地から移転し、大水槽棟を含む施設が完成しました。近くに海がないにも関わらず、目黒は海軍とは縁が深い土地柄です。

 1930年は「ロンドン海軍軍縮会議」が開かれた年で、日本は列強海軍に肩を並べられる軍艦を造ろうと、国を挙げて努力している時期であり、この海軍技術研究所には技術の粋が集められ、様々な実験施設が造られました。いまは埋められてしまいましたが、屋外に実験用の大きな池もあったそうです。太平洋戦争末期には空襲を受けますが、屋根を焼失した程度で設備に大きな被害はありませんでした。

なぜいまだ現役で使用されているの?

 太平洋戦争後は進駐してきたオーストラリア軍の駐屯地(キャンプエビス)になり、実験施設はしばらく使われませんでしたが、大切な水槽が破損しなかったのは幸いでした。1956(昭和31)年にキャンプエビスは日本へ返還され、防衛庁技術研究所目黒試験場となり、再整備されたのち実験を再開します。

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終戦から約10年後の大水槽棟。
屋根が焼け落ちたまま(画像:防衛装備庁)。
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オーストラリア軍から返還された直後の様子。水槽は無事(画像:防衛装備庁)。
目黒の住宅街にある大屋根の正体 戦艦「大和」も実験か 旧海軍施設なぜいまも現役?

オーストラリア軍から返還された直後、大水槽の西端より(画像:防衛装備庁)。

 コンピューターが無い時代、流体力学実験は模型を使って行うしかなく、この巨大施設は日本海軍だけでなく、日本の造船技術の発展にも大きく役立ちました。コンピューターシミュレーションが発達した現在でも、約90年間にわたり繰り返された実験で蓄積されたデータは代えがたいものであり、コンピューターシミュレーションで置き換えることは、完全にはできないといわれています。

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2019年現在の大水槽(画像:防衛装備庁)。

 最近は艦船だけでなく、無人水中航走体(UUV。無人で水中を動き回る小型のロボット潜水艇)や、陸上自衛隊向け水陸両用車の模型実験も行われています。1930(昭和5)年に作られた施設で未来のロボット潜水艇が実験されている様子は、技術の伝承と蓄積の大切さを伝えています。

【写真】水槽における実際の試験の様子

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水陸両用車模型の水上航走試験の様子(画像:防衛装備庁)。

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