陸上自衛隊に「機甲教導連隊」が誕生しました。隊内で教官を務める部隊なのですが、前身は「戦車教導隊」「偵察教導隊」など3つの部隊でした。
2018年度末を迎えた2019年3月25日(月)、静岡県小山町の陸上自衛隊富士駐屯地に所在する、ふたつの歴史ある部隊に幕が下ろされました。陸上自衛隊の機甲科職種である戦車教導隊と偵察教導隊の2個部隊です。戦車教導隊は57年間、偵察教導隊は58年間、それぞれ戦車部隊と偵察部隊の教育にあたってきた部隊です。
富士駐屯地に在籍する隊員たちの見送りを受けながら進む戦車教導隊。同隊は廃止され、駒門駐屯地にて機甲教導連隊へと新編される(武若雅哉撮影)。
陸上自衛隊は創設以来、変わりゆく時代の変化に応じて、様々な部隊を廃止・改編・新編してきました。その一環として、2018年度末をもって、いくつかの部隊を改編・新編します。これは、2013(平成25)年に国家安全保障会議および第2次安倍内閣の閣議で決定された「平成26年度以降に係る防衛計画の大綱について(25大綱)」に基づいたものです。「統合防衛力」を実現する「即応機動する陸上防衛力」構築に向けたものとうたわれ、陸上自衛隊創隊以来の大改革ともいわれています。
この改革には「サイバー空間における作戦能力向上」「南西地域における態勢強化」「作戦基本部隊の改編」「教育訓練研究体制の充実」が盛り込まれていて、陸上自衛隊はこれらの内容を「多次元統合防衛力」として整備し実現するため、隊をより充実・強化していくとしています。
冒頭の戦車教導隊と偵察教導隊の幕引きは、この「教育訓練研究体制の充実」の一環です。
そもそも「戦車教導隊」および「偵察教導隊」とは、どのような部隊だったのでしょうか。

駒門駐屯地で高田富士学校長から連隊旗を受け取る内田機甲教導連隊長。これをもって正式に連隊が発足する(武若雅哉撮影)。
前者は1954(昭和29)年に編成された「第102特車大隊」を前身とし、1962(昭和37)年に「戦車教導隊」へと名称変更した部隊です。陸上自衛隊の61式戦車(退役)、74式戦車、90式戦車、10式戦車、16式機動戦闘車などを扱ってきました。
後者は1959(昭和34)年に編成された「偵察教導中隊」を前身とし、1963(昭和36)年に「偵察教導隊」へ名称変更しました。87式偵察警戒車、軽装甲機動車、偵察オート(バイク)などの装備品を扱ってきた部隊です。

富士駐屯地にて、隊旗を高田富士学校長に返還する内田戦車教導隊長(武若雅哉撮影)。

富士駐屯地から駒門駐屯地まで移動する戦車教導隊(武若雅哉撮影)。

駒門駐屯地で歓迎を受ける戦車教導隊(武若雅哉撮影)。
両部隊は、約半世紀に渡り全国の戦車・偵察部隊の指標となり、また富士学校の学生教育、調査研究のための支援を行ってきました。
さらに、毎年8月に富士山のふもとで行われる「富士総合火力演習」では、俊敏な機甲偵察、百発百中の迅速機敏な戦車射撃を披露し、10月の自衛隊記念日「観閲式」では機甲戦力の威容を示し、国家防衛に大きく貢献してきました。
こうした訓練や行事のほかにも、新潟地震、英国航空機墜落事故での救助、雲仙普賢岳噴火災害、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震などに、戦車教導隊は17回、偵察教導隊は6回、それぞれ災害派遣されています。
新編された「機甲教導連隊」とは?今回、新編された「機甲教導連隊」は、これまで別々に編成されていた戦車教導隊と偵察教導隊をひとつにするもので、これにより陸上自衛隊は、機甲科職種における各種教育を一元的に管理でき、より効率よく学生教育や調査研究に資することを可能にする、としています。なお同連隊には、もともと駒門駐屯地に駐屯し新人機甲科隊員の教育などにあたっていた、東部方面混成団隷下の第1機甲教育隊も合流します。
「第1機甲教育隊」は、1962(昭和37)年に「第106教育大隊」を前身とした部隊として発足し、時を同じく2019年3月25日付けをもって解隊されています。

駒門駐屯地で歓迎される戦車教導隊(武若雅哉撮影)。
この背景には、陸上自衛隊が同じく新編した「即応機動連隊」と「戦闘偵察大隊」という部隊が密接に関係しています。
「即応機動連隊」とは、これまで普通科(いわゆる歩兵)、特科(いわゆる砲兵)、機甲科(いわゆる戦車兵・偵察兵)の3つの職種ごとに編成されていた部隊を、統合しひとつの部隊として新編したものです。この連隊には、連隊本部、普通科部隊、機動戦闘車部隊、火力支援部隊が編成されています。これは高い機動力と輸送性をもった16式機動戦闘車の導入により実現した編成で、第8師団(熊本)と、第14旅団(香川)がすでに即応機動連隊を新編しています。
「戦闘偵察大隊」とは、「即応機動連隊」などの機動力を生かして運用される部隊が展開したあとの広大な地域における、部隊や隊員間の情報共有を可能にするために編成された部隊です。指揮通信システムなどを整備し、高い監視能力を持つ16式機動戦闘車を配備、強固なネットワークシステムを構築することが期待されています。
「機甲教導連隊」は、このふたつの部隊の教育訓練と調査研究を効率的に支援することを目的のひとつとして新編されました。
具体的には「戦車教導隊、第1機甲教育隊、偵察教育隊が担ってきた教育訓練を機甲科として一元化することによって効率化を図る」「広域流動化する戦場において『戦略機動』『情報共有』『強硬手段による偵察』を可能にする」「より効果的な機甲戦力の運用を求められる、機動戦闘車中隊、偵察戦闘大隊などの16式機動戦闘車を装備する新たな部隊の指標部隊としての役割を持つ」という特徴が挙げられます。
変わりゆく機甲科、変わらない規範機甲教導連隊の発足にあたり実施された「新編行事」式典にて、東部方面総監である高田陸将はダーウィンの言葉を引用し「最も強い者が生き残るのではない。最もかしこい者が生き残るのでもない。唯一生き残こることができる者は、状況に応じ変化に対応できる者です」と、隊員たちを激励しました。
機甲教導連隊は、敵を圧倒撃破できる戦車部隊の特性と、隠密裏に情報を収集する偵察部隊の特性を、単にひとつの部隊に保有するというわけではありません。高田方面総監は続けて「時代の変化を受け、積極果敢に敵の情報を解明しつつ、同時に衝撃的効果を発揮することができる新しい機甲部隊の戦い方を創造し、教え導いていくのが、この機甲教導連隊です」と述べました。

駒門駐屯地で歓迎を受ける偵察教導隊(武若雅哉撮影)。
式典の最後には、機甲科出身の高田方面総監と機甲教導連隊の隊員が、旧陸軍時代の機甲兵たちも掲げた規範「機甲斯くあるべし」を唱和しました。
「機甲斯くあるべし」
一瞥克制機(いちべつ よく きをせいし)
万信必通達(ばんしん かならず つうたつ)
千車悉快走(せんしゃ ことごとく かいそう)
百発即百中(ひゃっぱつ すなわち ひゃくちゅう)
練武期必勝(れんぶ ひっしょうを きし)
陣頭誓報告(国)(じんとう ほうこくを ちかう)
これは、旧陸軍の初代機甲本部長であった吉田 悳(しん)中将が発案したとされるもので、陸上自衛隊の機甲部隊に配置された隊員は、必ず一度は唱えるという言葉です。
【写真】富士山に戦車と馬の新設「機甲教導連隊」部隊マーク

機甲教導連隊の部隊マーク。中央の戦車シンボルはよく見ると向かって右側が車輪になっている。