高速バスはまず「地方から都会への足」として定着し、平成を通じて大きく成長しました。豪華志向のバブル時代から、エコノミー志向のデフレ時代へと移り変わるなか、利用者や車両も多様化。
高速バスは「平成」を通じて大きく成長しました。年間利用者数はおよそ1億1500万人と、航空機(国内線)の約9300万人を上回る規模になっています(2015年度)。何がそうさせたのか、30年間を振り返ります。
「平成」が始まった1989年は、「高速バス開設ブーム」の真っただ中でした。4年前の1985(昭和60)年に全国で249系統1866便しかなかった高速バスは、この年に772系統2952便、1991(平成3)年には1093系統3670便へと急増します。この時期に全国で高速道路の延伸開業が続いたうえ、バブル経済のなかで人の移動が活発だったことが背景にあります。
1990年に運行を開始した西鉄の東京~福岡線「はかた号」。奥は、同じく東京~福岡間を結ぶ「オリオンバス」(2016年9月、中島洋平撮影)。
路線の起点と終点それぞれで、各地域の路線バスを運行する会社どうしの「共同運行」が定着した点も、高速バスの成長を促しました。地方の乗合バス事業者が都会の事業者と手を組み、容易に高速バス事業へ参入できるようになったのです。地方の乗合バス事業者は、不動産開発や小売業など様々な生活関連産業も展開する「地元の名士企業」ですから、彼らが自ら東京や大阪への高速バスを開業したことで、地方部において高速バスの認知が進みました。
たとえば、福岡~宮崎線「フェニックス号」は、平成が始まる前年の1988(昭和63)年に開業。この区間は鉄道だと遠回りで時間がかかるため、バスが一気にメインの交通機関へと躍り出ました。平成を迎えた開業翌年には、週末になるたび、宮崎県の若者たちがショッピングなどのため高速バスで福岡へ向かうようになり、「フェニックス族」と呼ばれるようになります。バブルの真っただ中、テレビでは「トレンディドラマ」が生まれたこの年、地方の若者の都市志向は大変強く、新しい商業施設の開業が続いていた福岡に(ほかの地方の若者は東京や京阪神に)憧れたのです。
1990(平成2)年には、いまも国内最長クラスの距離を走る東京~福岡線「はかた号」が開業します。所要時間が15時間(当時)と長いため認可を渋る運輸省に対し、バス事業者は何度も試走し、乗務員の健康状態をチェックするなど説明をして重ね、ようやく路線免許が下りたといいます。しかし、この直後から高速バス業界は、「攻め」から「守り」に転じます。
「大都市~大都市」路線が急成長したワケ1990年代前半のバブル崩壊以降、東京湾アクアライン(1997年)や明石海峡大橋(1998年)の開通にともなう新路線を除けば、全国的に見ると新規開業はひと段落します。多くのバス事業者が自社エリアの中心市街地に多く保有していた不動産の価格が、バブル崩壊後に下落し経営を圧迫していたのです。高速バス事業でも、車両のグレードダウンなど弱気な施策が目立ちました。
2000(平成12)年には道路運送法が改正され(施行は2002年)、高速バス分野への新規参入が自由とされました。

高速ツアーバスとしてスタートし、乗合バスに移行した「JAMJAMライナー」東京~仙台便(2018年12月、中島洋平撮影)。
それが、「高速ツアーバス」と呼ばれる事業モデルです。募集型企画旅行(バスツアー)という形態を採りながら、実質的には都市間移動サービスを提供するもので、法的には旅行会社が貸切バスをチャーターするという形態。したがって停留所は必要なく、既得権は関係ありません(利用客には「〇〇銀行前」などと「集合場所」を指定)。2002(平成14)年に容認された直後はニッチ商品に過ぎなかったものの、2005(平成17)年末に大手旅行予約サイトが「高速ツアーバス」の取り扱いを開始したことを機に、急成長を始めます。
「高速ツアーバス」は、従来の高速バスが苦手としていた「大都市と大都市を結ぶ路線」の市場をウェブマーケティングによって開拓し、成功を収めます。たとえば首都圏~仙台間の高速バス(高速ツアーバスを含む)輸送人員は、2006(平成18)年からの6年間で5倍以上に伸長しました。
「豪華」も「格安」も 制度変化が促した多様化しかし、「高速ツアーバス」は問題も抱えていました。価格の安さを売りに集客したい一部の旅行会社が、貸切バス事業者へのチャーター代を削減したり、繁忙期に無理な増便を強要したりして、バス運行の法令遵守がおろそかになる点が指摘されました。
筆者(成定竜一:高速バスマーケティング研究所代表)も委員を務めた国土交通省「バス事業のあり方検討会」で足掛け3年におよぶ議論の末、「高速ツアーバス」は制度上、従来の高速バスに合流することになりました。それが「新高速乗合バス」制度です。新制度発表直後の2012(平成24)年4月には、高速ツアーバスが群馬県内の関越道で乗客7人死亡という、重大な、大変痛ましい事故を起こしました。以前から指摘されていた問題が顕在化した事故といえ、制度一本化の期限は前倒しされました。

ウィラーの3列シート「リボーン」。同社も高速ツアーバスからスタートした事業者のひとつ(2017年1月、中島洋平撮影)。
こうして、2013(平成25)年夏以降、運行面では国による厳格な管理が行われるようになりました。一方で運賃設定などの営業面では、「既存」の高速バスにも「高速ツアーバス」同様の柔軟な制度が適用され、レベニュー・マネジメント(繁閑に応じた運賃変動)が行われるようになり、ウェブ予約比率の向上もその動きを後押ししました。
ウェブ上で比較しながら予約する環境が生まれたことで、車両面では、個室タイプなどの超豪華座席が登場する一方、夜行便でも4列シート・トイレなしという格安便も人気となり、多様化が進み現在に至ります。そうしたなか、衝突被害軽減ブレーキ(いわゆる「自動ブレーキ」)といった安全装置の装着義務化も着実に進みました。
2019年現在、高速バスは毎日1万5000便が運行され、年間輸送人員は1億1500万人と、航空国内線を2割ほど上回るまでに成長しました。ただ、その内訳には変化が見られます。「高速バス開設ブーム」に沸いた平成初期は、首都圏~北東北や京阪神~九州など長距離の夜行路線が目立ちましたが、近年は新幹線網の拡充や航空自由化(LCCの台頭)の影響を受け、長距離夜行市場が縮小しています。
それに代わり、おおむね片道250㎞、所要4時間以下の短・中距離が市場を大きく伸ばしています。なかでも、千葉県木更津市、袖ケ浦市周辺から東京湾アクアラインを経由して東京都心へ向かう路線や、山形~仙台間などでは朝ラッシュ時に3分間隔などと頻発し、鉄道に代わる通勤需要も取り込んでいます。1台当たりの定員が少なく、高頻度で運行できる高速バスは、所要時間のうえでも自宅から大都市の目的地まで鉄道と大差ない場合も。乗客は、夜行便では若年層が中心ですが、昼行便では老若男女、出張客らも多く見かけます。

「佐野プレミアム・アウトレット」に乗り入れるジェイアールバス関東の東京~佐野線(2018年12月、中島洋平撮影)。
乗客の変化という面では近年、新しい動きも生まれています。インバウンド(訪日外国人)の急増です。彼らの旅行形態が、貸切バスを使う団体ツアーから、高速バスや鉄道を乗り継いで旅行するFIT(個人自由旅行)に変化しているのです。富士五湖や高山、白川郷といった中部地方の山間部、九州の湯布院など、鉄道の利便性がそれほど高くなく、「日本らしさ」が残っている地域への路線が人気です。
平成の終わりを迎え、かつての「フェニックス族」のように、憧れの都会へ焦がれるように高速バスへ飛び乗る若者は減ったように感じます。当時の若者が親の世代となり、大型ショッピングモールも続々と開業したいま、若者にとって地方はほどほどに住みやすく、昔ほど「逃げ出したい土地」ではなくなっているのでしょう。入れ替わるように、地方出身で都市に住む当時の若者世代が、親の介護などのため高速バスで地元に向かう姿が見られます。この「30年後のフェニックス族」こそ、「平成」日本社会の変化の象徴かもしれません。
【写真】平成30年間で驚異的に増便 関東の「本数最大路線」

京成バスなど3社が共同運行する東京~鹿嶋線「かしま号」。平成30年間で6往復から88往復まで増便。通勤にも使われている(2016年10月、中島洋平撮影)。