日本のおもな私鉄は、鉄道を軸に沿線を開発する形で事業を展開してきました。このビジネスモデルを最初に導入したのが、阪急電鉄の創業者である小林一三。
日本のおもな私鉄は、単に鉄道を建設して運営するだけでなく、住宅地や娯楽施設など沿線の開発も行うという、多角的な経営を行っています。
阪急宝塚本線を走る電車(2017年2月、草町義和撮影)。
こうした私鉄経営の基礎を作ったのが、関西大手私鉄の阪急電鉄の創業者、小林一三です。
小林一三は1873(明治6)年、現在の山梨県韮崎市に生まれました。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)を卒業後、三井銀行(現在の三井住友銀行)に就職。このころ出会った銀行員の先輩の影響を受け、企業経営に興味を持つようになります。
1907(明治40)年に小林は三井銀行を退職しますが、これは大阪で計画された証券会社の支配人になるためでした。しかし、日露戦争後に起きた恐慌の影響で、証券会社の設立は幻に。小林は失業してしまったのです。
このことが、結果的には小林に大きな転機をもたらすことになります。ちょうどこのころ、大阪市の梅田エリアと大阪府北部の箕面や宝塚などを結ぶ私鉄の計画が浮上。
この計画を知った小林は、将来性の高い有望な事業と考え、資金の調達に奔走。三井銀行時代の上司だった北浜銀行(1897年に設立された大阪の銀行)の岩下清周頭取を説得し、北浜銀行に私鉄の株を引き受けさせたのです。
こうして1907(明治40)年10月、箕面有馬電気軌道という会社が設立されました。これが現在の阪急電鉄の起源です。小林は専務に就任しましたが、当初は社長が不在だったため、実質的には小林が会社のトップでした。
「宝塚歌劇」も鉄道維持のための策だった1910(明治43)年3月には、現在の阪急宝塚本線と箕面線に相当する路線が開業しましたが、当時の沿線は田畑が広がっていて人口も少なく、鉄道の経営は難しいと思われました。

箕面駅で発車を待つ阪急箕面線の電車(2017年2月、草町義和撮影)。
そこで小林は、ターミナルに百貨店を建設したり、沿線に住宅地や娯楽施設を整備したりしました。沿線の住宅地に引っ越してきた人や、娯楽施設を訪ねる観光客に箕面有馬電気軌道を利用してもらうようにして、鉄道の運賃収入を増やしたのです。
宝塚歌劇団も、元々は箕面有馬電気軌道の利用者を増やすための施策として設立されたものです。また、沿線に開発した住宅地は月賦方式で販売。
鉄道の建設と沿線の開発を連動させて利益を生み出すという小林のアイデアは、日本における私鉄経営のビジネスモデルになりました。いまでは、経営規模の大きい私鉄の多くが不動産事業も展開していますし、さらには沿線外でも、リゾート開発を進めたり娯楽事業を展開したりするなど、経営の多角化を図っています。
【写真】いまも残る「幻の阪急線」の痕跡

阪急は箕面や宝塚以外の地域にもネットワークを拡大させたが、実現しなかった路線も多い。写真は阪急新大阪連絡線のうち、建設が中止された淡路~新大阪間の旧建設予定地。新幹線の高架橋の下に建設スペースが確保されている(2017年2月、草町義和撮影)。