広島市および呉の市街地と、瀬戸内海に浮かぶ4つの島々を結ぶ路線バス「とびしまライナー」。島々への架橋により、船に代わる移動手段として誕生したこのバスは、地域の生活を大きく変え、近年は観光路線としての役割も担います。
広島県呉市の沖合に浮かぶ下蒲刈(しもかまがり)島、上蒲刈島、豊島、大崎下島などの島々を「安芸灘諸島」と呼びます。橋で本土とつながっているこれら4島と、呉、広島市街地を結ぶ路線バスが「とびしまライナー」。都会の広島から、ちょっとした「アイランドホッピング(島々を飛び回る)」気分を味わえる路線です。
大崎下島を走る、さんようバス「とびしまライナー」(2018年10月、宮武和多哉撮影)。
広島バスセンターを出発したバスは、広島駅に立ち寄ったのち、高速道路の広島呉道路(クレアライン)を経由して呉市街へ。市内をさらに東へ進み、「女猫(めねこ)の瀬戸」と呼ばれる海峡部に架かる安芸灘大橋を渡り、下蒲刈島に入ります。まもなく到着する見戸代バス停では、トイレ休憩を兼ねて長めに停車します。
この見戸代バス停は、2000(平成12)年まで下蒲刈島と本土と結ぶフェリーのターミナルがあった場所。使用されなくなった桟橋の近辺は海釣りスポットとして知られ、待合室のトイレにある「ここでイカをさばかないで」との張り紙が、釣り人の多さをうかがわせます。
その後、3つの橋を渡って上蒲刈島、豊島、大崎下島を走行。各島内ではほぼ海沿いを走り、大崎下島内では「このままバスが海に入るのでは」と思うほど急な、岬の先端部にあるカーブを曲がっていきます。大崎下島を半周し、終点の「沖友天満宮」バス停で乗客を降ろしたバスは、もはや運転席から釣り糸が垂らせそうなほどの海沿いに停車し、折り返しの広島行きとなるまで休憩します。
安芸灘諸島の島から島への移動は長らく船に頼ってきましたが、1979(昭和54)年の「蒲刈大橋」(下蒲刈島~上蒲刈島)を皮切りとして、島々は徐々に橋でつながっていきます。2008(平成20)年の「豊島大橋」(上蒲刈島~豊島)の開通で、本土と4つの島が陸続きとなり、「安芸灘とびしま海道」の愛称がつきました。そして、フェリーや高速船に代わって「とびしまライナー」(正式名称は「広島~蒲苅・豊浜・豊線」)が誕生し、大崎下島から広島市内までが1本のバスで結ばれたのです。
本土と島をつなぐバスの「光と影」「とびしま海道」の開通に合わせて、地元のローカル路線バスを運行していた「おおさきバス」が、「さんようバス」に社名変更し、広島市街と大崎下島を結ぶ「とびしまライナー」の運行を担うことになりました。また、呉市内の中国労災病院と大崎下島を結ぶ路線を、さんようバスが共同運行している瀬戸内産交のバスも、広島発着の「とびしまライナー」に使われることがあります。4つの島には大きな病院やスーパーが少なく、これら2系統のバスは、地元から呉・広島方面への買い物や通院に欠かせない存在となっています。
一方、道路整備や島々への架橋により、人の流れは呉方面に大きく傾き、2000年代に「とびしま海道」沿いの自治体はすべて呉市へと編入されました。通院や買い物には便利になった「とびしまライナー」沿線ですが、買い物客が島外へ流出したことで地元商店がさびれたり、また日帰り観光客は増えたものの宿泊を必要としないため、民宿などに影響を及ぼしていたりする側面もあります。

御手洗港付近では近年、観光客も増えてきた。バスは慎重に走る(2018年10月、宮武和多哉撮影)。
そうした「とびしまライナー」は、大崎下島の御手洗港が2018年に文化庁の「日本遺産」に指定されたこともあり、近年、観光路線としての役割も担うようになっています。御手洗港は江戸時代に北前船や幕府の公用船の寄港地として栄え、坂本龍馬をはじめ幕末の志士たちが討伐の密儀を交わす(御手洗条約)など、歴史の舞台にもなりました。
ちなみに、「とびしま海道」は大崎下島の東隣にある岡村島までが含まれますが、この島は愛媛県に属していることもあり、両島のあいだにバス路線は設定されていません。「とびしま海道」の延伸構想として、岡村島から北の大崎上島へ架橋し、竹原方面につなぐルートや、岡村島から東へ、「しまなみ海道」の一部である大三島(愛媛県今治市)につなぐ案もありますが、いずれも実現には至っていません。