旧日本海軍の「紫電」「紫電改」は、川西航空機(現・新明和工業)が設計、製造した陸上戦闘機です。飛行艇のメーカーとしていまなお名を馳せる同社が、大きく勝手の違う陸上機開発に着手した理由と、成功するまでの紆余曲折を追います。
2019年6月9日、旧日本海軍戦闘機「紫電改」の実物大模型が、兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場資料館敷地内にて公開されました。
太平洋戦争中、日本は様々な飛行機を作り、なかでも1万機以上造られた傑作機「零戦」、正式名称「A6M 零式艦上戦闘機」は広く知られています。一方わずか400機程度しか生産されませんでしたが、アメリカのスミソニアン博物館にて「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」と紹介され、同国で高い評価を得ているのが、上述の戦闘機「紫電改」です。
「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とアメリカからも高い評価を得ている戦闘機「紫電改」。
今回その実物大模型が公開された資料館があるのは、2019年現在も滑走路の遺構などが見られる鶉野飛行場跡地です。「紫電改」のメーカーである川西航空機の、姫路製作所組立工場の専用飛行場として建設されたのが始まりで、戦時中は姫路海軍航空隊が駐留していました。
川西航空機は飛行艇や水上機の開発を得意とし、九七式飛行艇、二式飛行艇などの傑作機を生み出し、戦後も新明和工業として飛行艇PS-1、US-1、US-2などを製造している会社です。
滑走路などの飛行場設備が整っていない島しょを作戦域とする海軍にとって、水面で発着できる水上機、飛行艇は、戦域が拡大する緒戦では便利な機種でした。そうしたなか、川西航空機は水上戦闘機「強風」を開発していましたが難航します。なんとか初飛行にこぎつけますが、性能も必ずしも満足できるものではありませんでした。急遽、中島飛行機が零戦を改造した二式水上戦闘機をピンチヒッターとして登場させますが、これが成功作となり、川西航空機の“お株”は奪われてしまいます。

「紫電」「紫電改」の元になった水上戦闘機「強風」(画像:アメリカ空軍)。

戦後アメリカ海軍でテストされる「紫電」。主脚が2段伸縮式(画像:アメリカ海軍)。

2007年に撮影されたレストア中の「紫電改」(画像:国立アメリカ空軍博物館)。
やがて戦局が悪化して守勢に転ずるようになると、水上機、飛行艇のメリットは無くなり、需要は急速に少なくなっていきました。
このままでは川西航空機には、海軍からの注文が無くなってしまいます。そこで、三菱が手がけていた零戦の後継機「烈風」開発がはかばかしくなかった戦闘機分野に食い込もうと、水上機の「強風」に車輪を付けて陸上でも使用できる戦闘機に改造する提案を海軍に持ち込みます。川西航空機にとっては初めての陸上戦闘機です。海軍は不安を示すものの、戦局が切迫していることもあり許可が下りました。
危険だった「長い足」「強風」の陸上機化された戦闘機は「紫電」と呼称されます。エンジンを「火星」から「誉」に変更したことで機体の改造が必要になるなど、結局そのまま流用できたのは操縦席付近だけでした。水上機型式で主翼が胴体中央部に取り付けられたため、主脚は長くなり2段伸縮式という複雑な構造になり、これが「紫電」の弱点となります。
「紫電」の初飛行は1942(昭和17)年12月31日でしたが、エンジン不調、主脚の不具合など海軍の要求仕様を満たせませんでした。

アメリカでのレストアのさなかの「紫電改」操縦席(画像:国立アメリカ空軍博物館)。

アメリカでレストアされた「紫電改」(画像:国立アメリカ空軍博物館)。

大きな4枚プロペラと主翼の20mm機関砲身が見える(画像:国立アメリカ空軍博物館)。
一方、川西航空機は「紫電」の不満足な結果から、初飛行の5日後には対策に取り掛かっていました。「紫電」発注取り消しを恐れていたのかもしれません。これが「紫電」の改良型「紫電改」です。改良とはいいながら大部分が再設計され、主翼は胴体下部に取り付ける低翼式としました。これにより主脚の長さは「紫電」の2051mmから1724mmとなり、強度が改善します。胴体も細くなって延長するなど、事実上の新型機ともいえました。
「紫電改」は1943(昭和18)年12月31日に完成します。「紫電」の要求仕様を完全には満足しなかったものの、最高速度620㎞/hをマークし、運動性、操縦性ともに及第とされ、海軍はすぐに採用します。
川西航空機特製の自動空戦フラップの威力も空し「紫電」「紫電改」には、川西航空機特製の「自動空戦フラップ」が取り付けられていました。元々は、陸上戦闘機に比べて劣る水上戦闘機「強風」の運動性を補完するために開発されたもので、通常は離陸や着陸のとき一時的に揚力を増加させるため主翼から展開する装置です。戦闘機のベテランパイロットは、空中戦で旋回や宙返りを行うとき揚力を増加させ、機動性を向上させるため手動でフラップを操作していましたが、高等なテクニックで誰でもできることではありませんでした。そこで操縦桿の先にあるボタンを操作すると速度を検知して自動で作動するようにしたのが「自動空戦フラップ」です。おかげでこのサイズの戦闘機のなかでは優れた運動性を示し、パイロットからも高く評価されています。

国立アメリカ空軍博物館で展示される「紫電改」。説明板にはアメリカ軍がつけたあだ名「GEORGE」が紹介されている(画像:国立アメリカ空軍博物館)。
「紫電改」は“決戦戦闘機”として、1945(昭和20)年中に2150機生産する計画が立てられますが、実際に生産されたのは415機に留まり、実戦部隊では松山基地(愛媛県)の第三四三海軍航空隊に「紫電」と混在して集中配備されただけでした。第三四三航空隊には優秀なパイロットが集められ、連合軍機と互角に渡り合うことができましたが、戦局を挽回することはできませんでした。1945(昭和20)年8月1日付けの海軍の「飛行機現状表」には、「紫電改」保有機86機、内可動機36機と記載されています。
三菱は傑作すぎた「零戦」の後継となる「烈風」の開発に失敗します。一方で川西航空機は、零戦とは対照的ながら時局に合致した強力なエンジンと防弾装備、20mm機関砲4門の強武装、短い航続距離という戦闘機を生み出しました。零戦の成功体験にとらわれない別畑の「飛行艇メーカー」だからこそ造れた戦闘機だったのかも知れません。