東京メトロ丸ノ内線の支線の終点、方南町駅ホームが6両編成に対応し、新宿・池袋方面との直通運転を開始しました。しかしそもそも方南町支線とは何なのか、そしてなぜいま方南町駅を改良したのか、その経緯や理由を探ります。

西新宿駅・中野坂上駅の利用者が増加

 東京メトロ丸ノ内線の方南町駅(東京都杉並区)でホーム6両化工事が完成し、2019年7月5日(金)から池袋~方南町間で直通運転が始まりました。

 丸ノ内線の支線(中野坂上~方南町)は中野富士見町に車庫が設置されている関係で、中野新橋駅(同・中野区)と中野富士見町駅(同)のホームは6両編成に対応しており、これまでも入出庫を兼ねた中野富士見町発着列車が設定されていました。

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ホーム6両化工事が完了した東京メトロ丸ノ内線の方南町駅(2019年7月5日、草町義和撮影)。

 しかし、終点の方南町駅だけはホームが短く、3両編成の区間列車のみが発着していましたが、今回のホーム延長工事で6両編成の列車が方南町まで乗り入れできるようになりました。ただし支線のダイヤの中心は引き続き3両編成の中野坂上~方南町間区間列車で、平日の列車本数209本のうち、6両編成・本線直通が68本、3両編成・中野坂上行きが141本です。

 方南町が座って通勤できる始発駅になることに注目が集まりがちですが、方南町6両化は路線全体の輸送改善を目的に進められてきた取り組みです。

 2000年代以降、丸ノ内線を悩ませてきたのが新宿以西の扱いでした。西新宿駅(東京都新宿区)が開業した1996(平成8)年、同駅の乗降客数は約2万人、隣の中野坂上駅(同・中野区)は約4万人でしたが、再開発が急速に進んだことで4年後の2000(平成12)年は西新宿駅が約3.6万人、中野坂上駅が約6万人と1.5倍に増加しています。その後も増加は続き、2017年時点で西新宿駅が約8.6万人、中野坂上駅が約7.5万人に達しました。

 丸ノ内線の荻窪方面は長らく、日中から夕方にかけて「荻窪行き、荻窪行き、新宿行き」と、2本おきに新宿で折返しをしていました。しかし、西新宿駅と中野坂上駅の利用者急増で、夕ラッシュ時間帯に駅が混雑して列車遅延を招いたり、新宿折返しの次の荻窪行きに乗客が集中したり、利用実態とダイヤのミスマッチが問題になりました。

方南町駅6両化で諸々の課題を解決

 解決には新宿折返し列車の運転区間を延長して、西新宿駅・中野坂上駅の停車本数を増やす必要がありますが、すべての列車を荻窪行きにすると新中野以西の輸送力が過剰です。

支線直通列車を増やそうにも、中野富士見町駅は構造上、本線上か車庫線に引き上げてから折り返す必要があるため限度があります。

 こうした諸々の課題と、老朽化した駅の改修やバリアフリー化を一挙に解決する妙案として2012(平成24)年に発表されたのが、方南町駅の6両化でした。当初は2016年度完成予定でしたが3年延期されたため、並行して現在の設備でできる限りの増発を図ることに。2015年10月のダイヤ改正では日中の新宿行きを2本おきから4本おきに変更。2019年1月のダイヤ改正では夕ラッシュ時間帯の新宿行きを2本おきから3本おきに変更し、いよいよ今回、2019年7月のダイヤ改正で朝ラッシュなど一部時間帯を除き新宿止まりの設定が無くなったのです。

 しかし疑問が残ります。なぜ方南町駅のホームだけ6両編成が入れなかったのでしょうか。そもそも方南町駅を終点とする(一見中途半端な)支線は何のために造られたのでしょうか。まず、東京メトロの前身である帝都高速度交通営団発行の『地下鉄荻窪線建設史』を紐解いて……と話を進めようとすると、丸ノ内線の話に突然出てきた「荻窪線」とはなんだとお叱りを受けてしまうかもしれません。

 戦後初の地下鉄として1954(昭和29)年に開業した丸ノ内線(池袋~御茶ノ水)は、順次延伸を重ね、1959(昭和34)年に新宿駅まで開業します。その後、1961(昭和36)年から1962(昭和37)年にかけて、新宿~荻窪・方南町間が開業するのですが、一体的に運行されているにもかかわらず、開業当時、新宿以西の区間は「荻窪線」と呼ばれていました。池袋~荻窪・方南町間の名称を丸ノ内線に統一するのは1972(昭和47)年のことでした。

車庫につながる路線として建設された方南町支線

 丸ノ内線が建設されたのは戦後ですが、実は原型となる池袋~新宿間を結ぶ路線は戦時中に計画されたものです。戦局の悪化で工事は中止されますが、用地買収は進められ、その時に確保しておいた土地のひとつが中野富士見町の車庫用地でした。こうした経緯から、戦後の丸ノ内線計画は当初、中野富士見町を起点に東にまっすぐ向かい、新宿、四ツ谷、赤坂見附を経由する路線として構想されました。

 ところが高度経済成長が始まると、通勤利用者の増加で国鉄中央線の殺人的な混雑が大きな問題になります。そこで丸ノ内線は中央線の混雑緩和を目的に、新宿から荻窪まで青梅街道下を掘り進める計画に改められました。一方、せっかく都心近くに確保した車庫用地を活用するため、中野坂上から分岐する支線を設定し、鉄道空白地帯であった中野新橋~方南町間の通勤需要にも応えることになりました。こうして当初計画とは違う形で建設された新宿~荻窪・方南町間は「荻窪線」と名付けられたのです。

 中野坂上~方南町間の支線は、計画時の交通需要推計から将来的にも4両編成を4分間隔で運転すれば十分とみなされており、6両で運転される本線とは直通運転を行わない前提で建設されました。ところが『荻窪線建設史』によれば、中野新橋駅、中野富士見町駅はホーム延長120m、方南町駅も110mを確保し、いずれも6両編成の列車が停車可能な構造として設計したと明記されています。

 1両18mの丸ノ内線は6両編成で約108m、丸ノ内線本線には茗荷谷などホーム延長110mの駅が存在するように、車両はホームに収まる計算です。ただ、方南町駅は終点ですから、過走すると車止めに衝突する危険があるため、営業運転での使用は現実的ではなかったようです。

 方南町の開業から6年後の1968(昭和43)年から、中野坂上駅の混雑を緩和するために新宿止まりの列車を中野富士見町駅まで延長する折返し運転が始まりました。

方南町駅のホームがもう少し長かったら、方南町駅までの直通運転は50年早く始まっていたのかもしれません。

【地図】車両基地と方南町駅に至る丸ノ内線の支線

方南町駅改良の陰に西新宿&中野坂上あり 東京メトロ丸ノ内線、ダイヤ刷新の背景

東京メトロ丸ノ内線の支線は中野坂上駅で分岐し、中野車両基地や方南町駅まで延びている(国土地理院の地図を加工)。

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