かつて東京の周辺には、多くの飛行場が置かれていました。そのまま飛行場として存続したものもありますが、そのほとんどは、ほかの用途に転用され姿を変えてしまっています。
2020年3月29日からは羽田空港の新着陸ルートの運用が開始され、国際線の発着枠が増やされます。しかし、かつては羽田や調布以外にも多数の飛行場が東京近郊に点在していました。今回はそのなかでも、かつて飛行場だったものの、いまやそれ以外に姿を変えてしまった場所を5つ紹介します。
埼玉県所沢市にある所沢航空記念公園。航空自衛隊で使用されていたC-46輸送機が展示されている(2013年8月、柘植優介撮影)。
東京都練馬区、光が丘公園
東京都練馬区にある光が丘公園は、23区内の都立公園としては5指に入る広さを誇りますが、周辺の光が丘団地とともに、ここは第2次世界大戦中、旧日本陸軍の成増飛行場でした。
成増飛行場は、開戦翌年の1942(昭和17)年に、首都防空の必要に迫られた旧日本陸軍が1年半の突貫工事で作り上げたもので、1943(昭和18)年12月21日に完成すると、戦闘機部隊が展開し、アメリカ軍機の迎撃にあたりました。
第2次世界大戦後はアメリカ軍が接収し、駐留軍向け住宅の建設を決めます。そして、1948(昭和23)年6月に完成すると、それから四半世紀にわたって、在日米軍の住宅地区として用いられました。
1973(昭和48)年に返還されると、公園や団地が造られていきました。1991(平成3)年には都営地下鉄大江戸線の光が丘駅もでき、いまや飛行場の面影はほとんど見られなくなっています。
千葉県柏市にある柏の葉公園も元々は飛行場でした。ここは1937(昭和12)年に、地域振興を目的に地元自治体が陸軍飛行場を誘致、1938(昭和13)年11月に旧日本陸軍柏飛行場として完成すると、1945(昭和20)年8月の終戦直前には、日本唯一のロケット戦闘機「秋水」が試験を行っています。
戦後は農地転用が決定し、いったん民間に払い下げられましたが、朝鮮戦争の勃発でアメリカ軍が再接収し通信所として使用、1970年代末に日本へ返還されました。
現在は、公園を中心に大学や病院、研究所などの文教地区に変貌しています。また2005(平成17)年8月には、つくばエクスプレスの柏の葉キャンパス駅が開設され、新興住宅地としても発展しています。
日本の航空発祥の地にも飛行場だったときの面影を残す場所もあります。
千葉県松戸市、松戸駐屯地柏市のお隣、松戸市にも飛行場がありました。「松飛台」という地域で、北総鉄道の松飛台駅もあります。ここには、1940(昭和15)年3月に当時、郵便航空などを担っていた逓信省航空局の開設した飛行場がありました。しかし1944(昭和19)年9月に陸軍の管轄となり、戦闘機部隊が配置されました。

千葉県松戸市の松戸駐屯地に残る、飛行機用大型格納庫(2012年10月、柘植優介撮影)。
1945(昭和20)年の終戦によってアメリカ軍に接収され、その後、鉄道教習所として使用されます。
ちなみに、松戸駐屯地には戦時中に建てられた大型倉庫があります。元々は航空機の格納庫で、現在も補強して使用されています。
埼玉県所沢市、所沢航空記念公園埼玉県所沢市にある所沢航空記念公園は、最寄り駅の西武新宿線航空公園駅前にはYS-11旅客機が展示され、公園内に「航空発祥記念館」もありますが、元飛行場であった面影はあまり感じられないかもしれません。
ここは、1911(明治44)年4月1日に旧日本陸軍の所沢飛行場として開設された、日本で初めての飛行場です。第2次世界大戦終結までの30年以上にわたって陸軍航空部隊の中核として使われていました。
1945(昭和20)年8月の第2次世界大戦終結以降は、アメリカ軍に接収され、在日米軍基地として用いられたのち、段階的に日本へ返還されています。しかし、いまだに米軍基地は残されており、公園や団地、防衛医科大学校、東京航空交通管制部などが基地を囲むように所在します。
まさか飛行場跡地が川の中跡地すら残っていない飛行場もあります。
埼玉県志木市、荒川荒川の河川敷にも飛行場はありました。埼玉県志木市にかつてあった民間の「浦和飛行場」です。
その後、荒川の流域改修工事で飛行場のあった場所が川岸となり、さらに秋ヶ瀬取水堰が設置されたことで、現在、飛行場跡は川の中になってしまっています。
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なお、戦前に開設され、2019年現在も飛行場として使われているところもあり、たとえば東京都調布市にある調布飛行場が挙げられます。ここは太平洋戦争直前の1941(昭和16)年4月30日に、公共用飛行場として開設され、戦後アメリカ軍の接収を経て、日本に返還されました。現在、再び公共用飛行場として使用されています。