国産戦闘機として、日中戦争から太平洋戦争前半には各戦線で高性能を見せた零戦ですが、その性能が発揮できた裏には、国産技術ではモノにできなかった、外国技術に由来する装備が多数あったからでした。

零戦を開発するにあたり外国製技術の支えあり

 太平洋戦争の開戦から終戦まで、一貫して旧日本海軍の主力戦闘機であった「零式艦上戦闘機」、通称「零戦(ぜろせん/れいせん)」ですが、開発するにあたり、外国由来の技術が各所に用いられていました。

そのなかでも性能に大きな影響を与えたであろう5つを見ていきます。

九七式七粍七固定機銃

 機首上部に装備した7.7mm機銃は、イギリス製のヴィッカース機関銃を日本製鋼所が1920年代後半にライセンス生産したもので、当初は「毘式七粍七固定機銃」と呼ばれ、1937(昭和12)年から「九七式七粍七固定機銃」に改称しています。

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浜松市にある航空自衛隊エアーパーク(浜松広報館)で保存展示されている零戦五二型(柘植優介撮影)。

 原型は1912(明治45)年に登場し、第1次世界大戦で大量に使用されたもので、旧日本海軍が第1次世界大戦後に導入したイギリス製の複葉戦闘機へ装備して以降、使い続けた実績ある機銃です。

 そのため弾薬は7.7mm口径といっても専用品で、旧日本陸軍が用いた同口径の機関銃と弾薬の互換性はありませんでした。

九九式二〇粍機銃

 主翼に内蔵した20mm機銃は、スイスのエリコン製20mm機関砲を大日本兵器株式会社(当時)でライセンス生産したものです。旧日本海軍では、1935(昭和10)年頃、大型爆撃機を撃破可能な大口径機銃の導入が計画され、白羽の矢が立ったのはエリコン製のものでした。

 1936(昭和11)年6月にライセンス契約が結ばれ、「恵式二〇粍機銃」の名称で生産を始めます。零戦は1937(昭和12)年の試作内示の段階で、この20mm機銃の装備が決まっており、後に「九九式一号二〇粍機銃」に改称しました。

 当初、60発入りドラム弾倉だった九九式一号二〇粍機銃は、太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年から100発入り弾倉に大型化し、翌1943(昭和18)年春からは銃身を長くした「九九式二号二〇粍機銃」が登場しています。同年秋以降はより弾数の多いベルト給弾式に改良され、終戦まで使われました。

 なお、戦争末期の零戦五二乙型以降のタイプは13mm機銃を装備しましたが、これはアメリカの戦闘機などが装備したブローニング12.7mm機銃の無断コピーでした。

零戦の照準器やプロペラも外国製がベース

 機銃の命中精度を高めるための照準器も、飛行速度を左右するプロペラも外国技術が由来のものでした。

九八式射爆照準器

 零戦が搭載した照準器で主力だったのは、ドイツのユンカース製レヴィ2b照準器をコピーした「九八式射爆照準器」です。これは「光像式」と呼ばれるタイプで、斜めに立てられた透明な板に、円と十字線で区切られた照準環を投影し、目標と重ね合わせて照準するものです。

「零戦」の誕生に貢献した外国技術5選 外観に影響を与えたもの 強さの源になったもの

陸上自衛隊の武器学校が復元した九八式射爆照準器。斜めに取り付けられた透明板に照準環を投影する構造で、左下側の写真のように映し出される(柘植優介撮影)。

 それまでの日本製戦闘機が装備していた照準器は「鏡筒式」と呼ばれる、いうなればライフルスコープのような構造のもので、風防(キャノピー)の前に固定されており、操縦士は片目で覗いて狙いを定めます。

 零戦のものは、透明板に映し出された照準環と前方の目標が重なることで照準するため、覗き込む必要がありません。また目標サイズに合わせて照準環の大きさを調整できました。そのほかにも照準環は投影により発光するため、周囲が暗くても見やすいというメリットもあります。

 太平洋戦争末期には新型の三式および四式射爆照準器が登場しますが、これらもドイツの新型照準器の技術が基になっていました。

可変ピッチプロペラ

 零戦は、旧日本海軍の戦闘機として初めて可変ピッチプロペラを搭載しました。

 可変ピッチプロペラとは、簡単にいえば、エンジンの回転数を一定に保つための機構です。

離陸時には大きな推進力が必要でエンジンに負荷がかかりますが、そのままの調子で空の上で巡航に移ると、負荷が少なくなったぶん、エンジンは過回転になってしまいます。

 そこで、プロペラの角度(ピッチ)を変えてエンジンにかかる負荷を調整し、そうすることでエンジンの出力を効率よく使おうとするのが、この可変ピッチプロペラというわけです。これにより、固定ピッチのものと比べ、上昇時間、距離いずれも短くなり、エンジンの整備性が向上し寿命も伸びるというメリットがありました。

 零戦のものは、アメリカのハミルトン製可変ピッチプロペラを、住友金属がライセンス生産する形で搭載していました。しかし構造的には1930年代のもので、戦争中も改良することができず、1945(昭和20)年の終戦まで基本的に同じものを使い続けました。

高性能を発揮するための引き込み脚にも

 零戦の高速化に貢献した引き込み脚ですが、これも日本は独自開発できませんでした。

引き込み脚

 日本製の航空機で初めて引き込み脚を採用したのは、三菱の九六式陸上攻撃機です。ただし構造的には部分引き込みで、エンジンカウルの下部にある開口部に入れるだけで、扉や覆いなどはなく、車輪も下半分は出っ張ったままでした。

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零戦二一型の機首。プロペラ、機銃、操縦席の射爆照準器、引き込み脚などは外国製の技術が用いられている(画像:アメリカ空軍)。

 旧日本海軍の戦闘機で初めて引き込み脚を採用したのが零戦です。零戦のものは扉や覆いが付き、そのぶん合わせ目などに高度な技術が要求されます。

そこで参考にされたのが、アメリカのチャンス・ヴォート製V-143戦闘機でした。

 V-143は、1937(昭和12)年に旧日本陸軍が研究用として輸入したものです。機体の調査には、海軍や三菱など多くの航空技術者が立ち会いました。このとき得られた知見が、のちに零戦の引き込み脚を設計する際の参考にされたようです。

 それでも、初期の零戦は油圧構造に問題があり、脚が引き込まないというトラブルがよくありました。

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 このほかにもエンジンについては、量産型では中島製の「栄」が、試作機では三菱製の「瑞星」や「金星」が搭載されましたが、前者はアメリカのライト(シリンダーや潤滑系)やイギリスのブリストル(ピストン形状)製エンジンを参考にしており、後者は三菱自身がプラット&ホイットニー製R1690をライセンス生産した「明星」の技術が用いられているため、エンジンについても技術的な影響が大きかったといえるでしょう。

 ここに挙げた5つの装備やエンジンなどは、高い基礎工業力や優れた工作精度が求められる部位です。零戦は日本が独自に開発した戦闘機ですが、重要な装備品は外国技術に頼らざるを得なかったといえるでしょう。

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