昭和初期、日本とイタリアは軍事同盟を結んでいましたが、同じく同盟を組んでいたドイツ製兵器と比べると、日本国内で当時のイタリア製兵器はあまり知られません。しかし数少ないながらも、旧日本軍で制式化し採用された例もありました。
旧日本陸海軍の軍用機は、明治末期から昭和初期まではヨーロッパ各国から輸入した、外国製航空機が主流でした。そののち徐々に国産化が進み、1941(昭和16)年12月の太平洋戦争開戦時には、そのほとんどが国産で占められるようになります。そのような流れのなか、旧日本陸軍が制式採用した最後の外国製飛行機がイ式重爆撃機です
イ式重爆撃機の原型であるフィアットが開発したBR.20爆撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
「イ式重爆撃機」は、イタリアのフィアットが開発したBR.20爆撃機を旧日本陸軍が採用した際に付けた名称で、「イ式」とはイタリア製を意味します。旧日本陸軍の外国製飛行機はほかに、フランスのモーリス・ファルマン製である「モ式」や、イギリスのソッピース製である「ソ式」、アメリカのロッキード製である「ロ式」などがありました。
旧日本陸軍は、イ式重爆撃機を全機輸入で調達します。これには日中戦争(支那事変)の勃発と、ドイツとの駆け引きが影響していました。
日中戦争は1937(昭和12)年7月に始まります。このころ旧日本陸軍の爆撃機は、ちょうど新旧交代の時期でした。期待の新型爆撃機として三菱製の九七式重爆撃機が同年1月に制式採用されていますが、生産が本格化しておらず、機数はそろっていませんでした。一方、既存の九三式重爆撃機は旧式化して性能不足であり、なおかつ前年の1936(昭和11)年に生産が終了し、戦争が勃発したところで増産は無理、という状況だったのです。
そこで旧日本陸軍は、国産機ではなく外国機を輸入して間に合わせることにします。
こうして、旧日本陸軍はイタリアと交渉を始めることになります。
部隊配備から2年足らずで運用終了イタリアはドイツと異なり、日本に対して爆撃機を輸出することに積極的でした。イタリアが提案したのは、いずれも同国の航空機メーカーによる、カプローニCa.135とフィアットBR.20の、2種類の爆撃機で、旧日本陸軍は比較審査の結果、後者の購入を決めました。

編隊を組みながら飛ぶBR.20爆撃機。写真はイタリア軍機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
フィアットのBR.20爆撃機は、1936(昭和11)年2月10日に初飛行したばかりの、引き込み式の脚を持ち、エンジンを2基装備する大型爆撃機でした。旧日本陸軍は早々と1937(昭和12)年後半に購入契約を結びます。
1938(昭和13)年初頭に最初の機体が引き渡されると、旧日本陸軍ではさっそく実戦運用が始まりました。しかし、日本製の機体と異なる部品規格やエンジン不調による稼働率の低さ、故障の多さなどに前線部隊は悩まされます。また爆弾などもイタリア規格で、日本のものと互換性がないため、機体とあわせて輸入した爆弾のストックがなくなると運用に支障が出るようになりました。
その結果、国産の新型機である九七式重爆撃機の生産が軌道に乗り運用が本格化すると、イ式重爆撃機は早々に第一線を退き、満州国(現在の中国東北部)に中古兵器として引き渡されることになります。
とはいえイ式重爆撃機は、それまでの日本製軍用機と異なり、主要部の頑丈さや優れた耐弾性などについては評価されていました。また自衛用に12.7mm機関砲を2門、20mm機関砲を1門装備しており、そのうち12.7mm機関砲が国産の航空機搭載用機関砲を開発するにあたり参考とされます。
短命でその役割を終えたイ式重爆撃機ですが、搭載機関砲を基に製造された12.7mm弾は、そののちも旧日本陸軍の航空機用弾薬として太平洋戦争の終結まで使われ続けたため、日本に与えた影響は小さくなかったといえるでしょう。