スキー場のリフトのような足元がブラブラしたタイプのジェットコースターは、両足の踏ん張りがきかないためよりスリリングといいます。これが急降下爆撃機で、しかも腹ばい姿勢で操縦するとなると……WW2期、イタリアでのお話です。
飛行機の最初期、アメリカのライト兄弟が製作した「ライトフライヤー」号では、パイロットは腹ばいの姿勢で搭乗していました。これは腰を左右に振る動きが飛行機の操作のひとつになっていたからです。
サボイア・マルケッティSM.93急降下爆撃機。イタリア製だがドイツ占領後に完成したためドイツの国籍標識を描いている(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
その後、飛行機の発展とともに機体の操作は手足のみで行うようになり、パイロットはコックピットへ座る姿勢で操縦するようになっていきます。しかし、ライトフライヤーの初飛行から40年ほど経った第2次世界大戦中のイタリアで、再びパイロットが腹ばい状態で乗り込む飛行機、サボイア・マルケッティSM.93が作られました。
1930年代後半、アメリカやドイツなどが開発した急降下爆撃機に触発される形で、イタリアもその国産開発を始めます。「急降下爆撃機」とは、爆弾の命中率を上げるために目標近くまで爆弾を抱えたまま降下していき、地上に極力近い高度で爆弾を落とす爆撃機のことです。この方が無誘導爆弾を投下する際、水平爆撃よりも命中精度に優れていました。
イタリアは1936(昭和11)年に、航空機メーカーであるサボイア・マルケッティに初の国産急降下爆撃機の開発を依頼します。完成した機体はSM.85と呼ばれ、同年12月に初飛行したものの、低性能なため大量生産はされませんでした。イタリア空軍は、代わりにドイツのユンカースJu87を導入し、SM.85を1940(昭和15)年に全機退役させました。
同年にイタリアが第2次世界大戦へ参戦すると、戦争中の1942(昭和17)年にイタリア空軍は、再び国産の急降下爆撃機を計画、サボイア・マルケッティに改めて新型機の開発を依頼します。
急降下爆撃機の最適解を導き出した結果…ユニークすぎたSM.93の誕生新たな国産急降下爆撃機には、ドイツから提供された高出力な、ダイムラー・ベンツ製DB605水冷エンジンを用いることを決めます。なおエンジン以外は独自開発でしたが、胴体や主翼などほとんどの部分は木製構造でした。

SM.93急降下爆撃機の機首部分。前方下部視界をよくするため、エンジン直上にまでコクピットの風防がせり出している(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
この新型急降下爆撃機の開発中、イタリアはアメリカやイギリスに降伏し、国は南北に分裂したものの、北イタリアを占領したドイツが同機を接収し開発は続行されます。そして1944(昭和19)年にSM.93は完成し、1944(昭和19)年1月31日には初飛行に成功しました。
SM.93の特徴は、冒頭に記したように、なんといってもコクピットでした。ふたり乗りで、後ろ側の銃手席は一般的な椅子に座る構造でしたが、前側の操縦手は椅子に着席するのではなくうつ伏せで搭乗するようになっていました。
これは急降下爆撃機としての性能を追求した結果で、軍用機として空気抵抗を減らしつつ、急降下爆撃機として良好な機体前下方の視界を確保し、なおかつ急降下後の機体引き起こし時にかかるパイロットへのG(重力)に対する負担を減らせるよう、様々な条件を勘案した結果、導き出されたものでした。
SM.93は大きさの割に重い機体だったものの、約1500馬力を発揮するドイツ製エンジンのおかげで性能的には問題なく、テスト飛行では急降下時に900km/hものスピードを記録しています。
しかし、戦争が激しさを増すなかで試作機の開発は続けられなくなり、初飛行から2か月後の3月29日にドイツの命令によって開発は中止になりました。
SM.93は性能こそ悪くありませんでしたが、仮に採用され部隊配備となったら、パイロットから文句が出たのではないでしょうか。とくに軍用機の場合はちょっとした操縦ミスが命取りにつながるため、それまでの航空機とあからさまに搭乗姿勢が異なるSM.93は、あまりにもクセが強いといえるでしょう。