F-15「イーグル」の30年ほど前に作られた初代「イーグル」戦闘機は、「マスタング」の主翼や「コルセア」の主脚など成功した機のイイトコどりで設計されました。作るのは自動車メーカー子会社……あまりいい予感はしませんが、果たして。
1940年代、アメリカの自動車メーカー、ゼネラルモータース(GM)の子会社フィッシャー・ボディ(以下フィッシャー)が、航空機メーカーの開発した機体のイイとこどりで戦闘機を作ろうとしました。
アメリカ空軍博物館で保存展示されているP-75A「イーグル」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。
ことの起こりは第2次世界大戦が激しさを増す1942(昭和17)年2月、アメリカ陸軍が大馬力エンジンを搭載する迎撃戦闘機の開発を航空機メーカーに要求したところから始まります。これに前述の、フィッシャーが手を挙げました。
フィッシャーは、自動車の特注ボディを手掛ける、いわゆるコーチビルダーと呼ばれる架装専門メーカーです。とはいえ、同社の生産能力は年間30万台以上と高く、その工場設備を用いて第2次世界大戦中は航空機や戦車の生産に携わっていました。
技術や生産能力に関して問題ないことから、アメリカ陸軍は新規開発も任せることにします。フィッシャーは、陸軍が要求した最高速度706km/h、上昇力毎分1700mという過大な要求に応えるために、大型機用である3000馬力級のアリソン製24気筒水冷エンジンをコクピット後方の胴体中央に積み、延長軸によって機首の二重反転プロペラを駆動させる構造を新型機に取り入れました。
エンジンを胴体中央に置くのは、いちばん重量のある部材を機体中心に据えることで運動性能をよくするためです。クルマのミッドシップレイアウトと同じ発想です。かつ機首にエンジンがないため、そのぶん機銃を集中配置でき、重武装化を図れます。さらに機首を絞れるため、空気抵抗を低減したデザインにしやすいというメリットもありました。
1942(昭和17)年10月、この新型機は「XP-75」の名称で、正式に開発契約が結ばれます。すると、フィッシャーはまだ実機も完成していない段階で、「イーグル」という愛称まで決めてしまいました。

試験飛行中のP-75A「イーグル」戦闘機の上面写真(画像:アメリカ空軍)。
フィッシャーは、開発期間の短縮と生産コストの低減を目的として、既存機の部品を積極的に流用することにしました。主要部分だけ見ても、主翼外側と胴体下部のラジエーター部分はノースアメリカンP-51「マスタング」戦闘機のものを、主脚にはヴォート(チャンス・ヴォート)F4U「コルセア」艦上戦闘機のものを、そして尾翼にはダグラスSBD「ドーントレス」急降下爆撃機のものを各々用いていました。そのため、独自設計といえるのは、コクピットを含む胴体前半分と主翼付け根くらいでした。ここまで既存機の部品を流用していれば、開発期間は相当、短縮できます。
なおXP-75の開発中に、アメリカ陸軍のなかで開発に関する優先順位が変わり、迎撃戦闘機機よりも大型爆撃機に同行可能な長距離護衛戦闘機の方が上位になります。XP-75もその影響を受け1943(昭和18)年7月、同機を基にした長距離護衛戦闘機が改めて開発されることになり、その改良型はP-75Aと呼ばれることになりました。
そのようななか、XP-75は開発契約の締結から約1年後の1943(昭和18)年11月17日に初飛行します。しかし、試験飛行は惨憺たるものでした。機体前方を貫く延長軸は振動を引き起こし、なおかつエンジンの冷却不足も問題になりました。
数多くの問題から、改良型として開発されていたP-75Aは、主翼や尾翼に既存のものを流用することを止め、コクピットの風防や重心位置まで見直す根本的な設計変更が行われました。しかし、ここまでの改良となると、時間もコストもかかります。

牽引車で移動中のP-75A「イーグル」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。
抜本的な設計変更で、既存機を流用することによる開発期間の短縮や生産コストの低減は考慮できないところまできていました。またP-75Aの初号機は1944(昭和19)年9月15日にロールアウトしますが、そのころには既存のP-51「マスタング」やP-47「サンダーボルト」などが十分に長距離護衛戦闘機としての役目を担っており、P-75Aを導入する必要性はなくなっていました。
P-75A自体の性能も、XP-75と比べると改善されていたものの、アメリカ陸軍の要求値には及ばず、しかもテスト中に墜落事故を起こしてしまいます。その結果、生産はXP-75とP-75A合わせて14機で終了し、しかも博物館で残す1機を除いてすべてスクラップにされました。
その後「イーグル」の名を受け継いだのは、航空自衛隊も使用するF-15戦闘機です。同機が「20世紀最強の戦闘機」などと呼ばれるのと比べて、XP-75「イーグル」はあまりにも対照的な機体であったといえるでしょう。