リーガに挑んだ日本人(7)

 2000年代前半、スペイン、リーガ・エスパニョーラ1部に挑んだ選手は、城彰二、西澤明訓、大久保嘉人東京ヴェルディ)と、ことごとくストライカーだった。

 だが当時、日本はMF陣が百花繚乱。

中田英寿小野伸二FC琉球)、稲本潤一(SC相模原)、松井大輔横浜FC)、長谷部誠(フランクフルト)らが、欧州各国でもてはやされていた。スペインでも、中盤の選手の挑戦が待望されたのは自然の流れだろう。

 また、過去の3人のストライカーは、Jリーグから海を渡ってやって来た。彼らはヨーロッパの生活様式に慣れていなかった。言葉を含めたコミュニケーション一般の問題も抱えていた。日本で長いシーズンを戦ってから、シーズン真っ只中の欧州のチームで力を見せつけるハードルは高かった。
年明けのシーズン途中からの入団で、すでに戦ってきた集団に適応しなければならない。大げさに言えば、学期の途中からやってきた言葉のわからない転校生だ。

「ナカムラは流れを変える!」

絶賛から始まった中村俊輔のリーガ挑戦。評価急落の裏に嫉妬もあ...の画像はこちら >>
 スペインの記者たちは当時、MF中村俊輔(横浜FC)の挑戦に大きな期待を寄せていた。

 2009年7月、中村はスコットランドのセルティックからエスパニョールに移籍している。セリエA、スコットランドリーグで長くプレーした中村は、すでにヨーロッパで経験と実績があった。チャンピオンズリーグ(CL)では、"赤い悪魔"マンチェスター・ユナイテッドを相手に、伝家の宝刀の左足FKを叩き込んでいる。

チームのCL決勝トーナメント進出に大きく貢献し、日本人サッカー選手として新たな時代を切り開いていた。

 筆者は、シーズン前哨戦となった8月2日のリバプールとのトレーニングマッチを、現地で取材している。

 この日、中村は左MFとして先発していた。開始直後、ボールを受けてタメを作ると、左サイドバックの動きを引き出し、絶妙のタイミングと精度のスルーパス。左SBが折り返し、クロスから好機につながった。ゴールには至らなかったが、記者席がざわついた。
サッカー通のスペイン人たちの心をとらえるプレーだったのだ。

 そして前半20分、中村は左サイドでボールを受けた瞬間、左足でディフェンスラインとGKの間を通すようなスルーパスを流し込む。これを受けたFWルイス・ガルシアが、先制点を決めた。

「FWの動きを考え尽くしたパスだったよ」

 スペイン代表のルイス・ガルシアも、絶賛のプレーだった。

「日本のメディアスターが、フットボールスターになった!」

 翌日の大手スポーツ紙『アス』は、中村の写真を大きく使って打電し、0~3の採点で2の高得点をつけた。

「ナカ(中村)には、ゴール前でチャンスを作る能力を示してほしい」

 マウリシオ・ポチェッティーノ監督も、主力として構想にいれていた。

日本サッカーが生んだ最高のレフティは、この時点で眩しい光を放っていたのだ。

 しかし、シーズンが始まり、中村の評価は急落する。

 開幕のアスレティック・ビルバオ戦、続くレアル・マドリード戦は先発したが、2連敗したチームの不振に埋もれる。悪いことに、中村が先発を外れた第3節デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦は、打ち合いの末に勝利した。その後は出場しても空回りし、パスも集まらず、次第に出場時間が少なくなっていった。12月から年明けにかけては、出場なしの機会も増えていた。

 2010年6月の南アフリカワールドカップ出場を、中村自身は見据えていたのだろう。スペイン挑戦は夢だったようだが、ワールドカップと天秤にかけると、試合勘の薄れは危惧すべき課題だった。日を追うごとに、彼の周囲があわただしくなっていた。そして2010年2月、マラガ戦出場を最後に、Jリーグの横浜F・マリノスに復帰することが決定している。

 リーガは競争が厳しい世界である。それまで中村が在籍していたスコットランドリーグ1部は、リーガ2部とほぼ同等のレベル。

セルティックは頭ひとつ抜けた存在だが、セミプロに近いチームもある。2部B(実質3部)の無名FWだったスペイン人ナチョ・ノボは、スコットランド(レンジャーズなど)で同国リーグを代表するストライカーになっている。

 また、リーガには独特のプレーリズムがある。あのジネディーヌ・ジダンでさえ、レアル・マドリード入団後、3カ月間はポンコツ扱いされていた。ユベントスで世界を制していたMFが、「スペインの水に合わない」とこき下ろされていたのだ。

 それだけに、「たられば」ではあるが、もし中村が腰を落ち着ける形でリーガに臨むことができれば、状況は好転したかもしれない。

 一方で、スペイン人記者たちはお決まりのフレーズを使い、その挑戦を締め括っている。

「中村はスペイン語ができず、コミュニケーションに難があった。ロッカールームでも孤立していた」

 エスパニョールの選手たちは、中村だけが大勢の日本人記者に囲まれる様子に、違和感を覚えていたという。スター扱いに対する、一種の嫉妬があった。スコットランドでは、誰もがひれ伏す技術を見せつけられたが、スペインでは匹敵するレベルの選手もいた。コミュニケーションの欠如は、大きなハンデとなって表出したのだ。

 結局、中村のスペイン挑戦は半年余りで幕を閉じている。
(つづく)