MotoGP最速ライダーの軌跡(1)
バレンティーノ・ロッシ 中

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。


1人目に紹介するライダーはバレンティーノ・ロッシ。なぜロッシは「史上最強ライダー」と呼ばれるのか。今改めて彼の強さと魅力を読み解いていこう。

ロッシは5年連続で王座獲得。20代ですでに「生きる伝説」だっ...の画像はこちら >>

成績不振が続いていたヤマハへ移籍したロッシ。初年から王者となり、チームの窮地を救った

 
 バレンティーノ・ロッシの人気には、他の歴代チャンピオンやスター選手たちのそれと一線を画す大きな特徴がある。それは、二輪ロードレースに興味のなかった多くの人々をサーキットへ引き寄せた、という効果だ。

 ロッシが登場するまで、ロードレースの人気は主にバイク乗りや熱狂的なモータースポーツファンたちが支えていた。観戦に来ていたのも、もっぱらその人々だった。しかし、ロッシの登場により、乗り物としてのオートバイにこれまでまったく関心のなかった幅広い層がレースに興味を持ちはじめ、サーキットを訪れたり、テレビでレース中継を観たりするようになった。

 ロッシのイメージカラーである鮮やかな黄色を基調にしたデザインのTシャツをはじめ、さまざまなキャラクター商品は、どの会場でも飛ぶように売れた。ロッシ関連のグッズはいずれも、街中で着用しても違和感のない高いファッション性を備えていた点が、なによりも特徴的だった。

 老若男女に愛されるアイドルスターの華やかな愛嬌は、やがて年を重ねるにつれ、ロックミュージシャンばりのカリスマ性へと進化していった。

卓越したライディングセンスと年齢に似合わない老練な駆け引きは、目の肥えた玄人ファンたちをも唸らせる水準で、ロッシは「天才」「スーパースター」という呼称をほしいままにした。

 2ストローク500cc最後のシーズンに16戦11勝で最高峰クラスのチャンピオンを獲得した2001年から、4ストローク990ccのMotoGPマシンが導入された翌02年にかけて、人気の上昇はまさにうなぎのぼりといえる状況だった。MotoGP元年のこのシーズン、他陣営を圧する高い性能のホンダRC211Vとロッシのコンビネーションは、無敵にみえた。

 開幕戦日本GPは当然のように優勝。第2戦こそ2位で終えたが、第3戦以降は連戦連勝を続けた。破竹の快進撃で前半戦を終え、後半戦もその勢いは続くと思われたが、夏休み明けの端緒となったチェコGPでは、運悪くレース中のタイヤトラブルにより、リタイアを余儀なくされた。

この時は、ロッシが速度を落としてピットボックスへ戻っていく様子をプレスルームのモニターで見ていたが、満場のロッシファンが落胆にどよめく声が室内まで聞こえてくるような気さえした。

 とはいえ、次戦以後はリズムを取り戻し、結局、一年間を戦い終えてみればまたしても圧倒的優勢のシーズン。16戦11勝を挙げ、2連覇を達成した。

 翌03年は契約更改の節目の年だったが、ホンダとの残留交渉は決裂し、ヤマハへの移籍が決定した。

 当時のヤマハは、1992年のウェイン・レイニー以降、10年もの間ずっとチャンピオン争いから遠ざかっていた。しかも、MotoGP時代初年度のエース的存在だったマックス・ビアッジは、2003年にヤマハからホンダのサテライトチームへ移籍した。
開発面でマシンの方向性を明示できるライダーが不在で、戦闘力の面でも、当時のヤマハYZR-M1は明らかにホンダRC211Vに劣っていた。03年の表彰台獲得回数は、全16戦48表彰台のうち3位が一回のみ。この惨憺たる成績が、当時のヤマハのポテンシャルを如実に物語っている。

 そんな弱小陣営だったヤマハへ、ロッシはクルーチーフのジェレミー・バージェス以下、スタッフたちを引き連れて移籍した。ヤマハ側は、新たに開発の陣頭指揮を執ることになった古沢政生が、エンジン技術にクロスプレーンクランクシャフトを導入した不等間隔爆発を採り入れ、マシン面での戦闘力向上を図った。

ロッシは5年連続で王座獲得。20代ですでに「生きる伝説」だった

古沢政生がエンジンの改良を測ったヤマハYZR-M1に乗るロッシ

 開幕前のテストからロッシとヤマハは水準の高い走りを見せた。
だが、この時期の大方の見方は「将来的にチャンピオンを獲る見込みはあるが、しばらくはきっと苦労を強いられるだろう」というものだったように記憶している。

 04年シーズンは、南アフリカのウェルコムサーキットで開幕した。

 決勝レースは、宿敵マックス・ビアッジとの一騎打ちになった。結果は周知のとおり、ロッシがビアッジとの激戦を僅差で抑え切り、ホンダからヤマハへの移籍後初レースを制した。そして、以後のレースでも優勝争いを続けてシーズン16戦中9勝。最終戦ひとつ手前の第15戦オーストラリアGPでチャンピオンを決めたのだ。
ウイニングランでまとったTシャツに記されていた〈Che Spettacolo!〉(超劇的)というイタリア語の文字が示すとおりのドラマチックな一年だった。

 そして、明くる05年も当然のようにチャンピオンを獲得した。ホンダからヤマハへメーカーをまたいで5年連続の王座に就き、しかもあれだけ勝てなかったヤマハを即座に最強チームへ立て直したロッシは、この当時まだ20代半ば。すでに「生きる伝説」といっていい存在になっていた。

 06年は、タイトルを決める最終戦バレンシアGPの決勝で転倒して自滅し、ホンダのニッキー・ヘイデンに王座を奪われた。07年は、ケーシー・ストーナーが圧倒的なスピードを発揮して、ドゥカティに初のチャンピオンをもたらした。  そして08年は、250ccクラスから昇格してきたホルヘ・ロレンソがチームメイトになった。ヤマハファクトリーエースの座を脅かしかねないロレンソの加入で、チームにはかつてないほどピリピリした緊迫感が漂った。

 この2000年代後半、ロッシは30歳に近づき、チャンピオンを争う相手は年下の選手ばかりになっていた。

 最高峰クラスに昇格したばかりの頃、ライバルはすべて年上の選手たちだった。宿敵のマックス・ビアッジしかり、04年秋に遺恨が発生し、それまで少なくとも表面上は友好的だったライバル関係を断ち切ったセテ・ジベルナウしかり。しかし、それから数年が経過し、直近の競争相手はみな、自分よりも6~7歳若い20代前半のストーナーやロレンソ、ダニ・ペドロサといった顔ぶれに変わっていた。

 彼らを相手にシーズンを戦った08年は、3年ぶりに王座の奪取に成功した。そして09年も連覇して、これで都合9度目の世界チャンピオン獲得。このとき、ロッシは30歳。現代のアスリートにとって、30歳という年齢は決して年老いた部類には入らない。だが、ヤマハのマシン開発を指揮してロッシから盤石の信頼を得る古沢は「それでもやはり、若い頃とは違いますよ」と笑いながら話した。「ウチにやってきた当初のバレンティーノは、ヘルメットを脱ぐとすぐにマシンの症状についてコメントを述べていました。でも今は、ヘルメットを脱いで少し呼吸を整えてから、話しはじめますからね」

 それでも、まだ30歳にすぎない。ロッシはきっと、これから先も数回はチャンピオンを獲得するに違いない。多くの人がそう考えた。

 ヤマハ内部では、ロレンソとの緊張関係は年々高まり、2010年はそのロレンソが最高峰クラス3年目にして初タイトルを獲得。ロッシは、バージェス以下のチームスタッフを従えて、11年にドゥカティへ移籍した。イタリアメーカーのマシンにイタリア人選手が乗るという、完全イタリアンパッケージ。しかもそのライダーがロッシとくれば、期待は否が応でも高まる。ホンダからヤマハへ移籍したときのような、劇的なドラマの再現を多くの人が期待した。

 しかし、事態は04年のようなわけにはいかなかった。
(つづく)

【profile】バレンティーノ・ロッシ Valentino Rossi
1979年2月16日生まれ、イタリア・ウルビーノ出身。MotoGPにおける現役最年長ライダーで、現在ヤマハ所属。グランプリライダーの父グラジアーノの影響で、幼少期からレース経験を積む。96年に125ccクラスデビューを果たし、翌年、世界タイトルを初獲得。250ccクラス王座を経て、当時最高峰クラスの2ストローク500ccを2001年に制覇。02年から始まったMotoGPでは4年連続を含む計7回タイトル獲得。