東京五輪&パラリンピック
注目アスリート「覚醒の時」
第27回 野球・千賀滉大
プロ1年目オフに参加した自主トレ(2012年)

 アスリートの「覚醒の時」──。

 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。



 ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。

 東京五輪での活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく──。

千賀滉大を変えた魔法の言葉。「快速ノーコン」は球界のエースに...の画像はこちら >>

毎年1月に福岡・八女で自主トレを行なう千賀滉大

 昨年の開幕戦で自己最速の161キロを記録し、9月にはノーヒット・ノーランを達成したソフトバンクの千賀滉大。

 いまや球界を代表する投手となった千賀が、かつて育成ドラフト4位でプロ入りした事実はもう説明不要なほど語り尽くされてきた。だが、実際に「背番号128」だった時代を知る人は多くないはずだ。


 また、プロ2年目の2012年4月23日に支配下登録された時の背番号は、現在の「41」ではなく、球団のエースナンバーである「21」だった。

 育成枠からの卒業は早かった。では、ルーキーイヤーに目立った実績を残したかといえば、答えは「ノー」だ。

 二軍公式戦の登板はゼロ。千賀の入団と同時に三軍も発足したが、そこでも登板が多いわけではなかった。むしろ、夏場まではまったく試合で投げていなかったほどだ。

 千賀の言葉をそのまま借りれば「ドンケツのビリのビリ」で、プロ野球の世界に飛び込んだ。愛知の蒲郡高時代もまるで無名。地元のアマ野球に精通していたスポーツショップの店主が、ソフトバンクのスカウトにたまたま紹介したのが縁で見出された選手だった。

 球速は144キロの触れ込みだったが、本人は「それはたまたま。基本は130キロ台」と自虐的に笑っていた。

 プロ野球選手としての基礎づくりに励んだ1年目。

当時、三軍投手部門を担当していた倉野信次コーチに厳しく鍛えられた。さまざまなトレーニングを行なったが、とくに印象に残っているのが腹筋の「1日ノルマ1000回」だ。

 当時、三軍戦の取材に行くと、試合の真っ最中でも球場正面入り口前の廊下にマットを敷いて、同期入団の高卒新人たちと並んでひたすら腹筋を鍛える千賀の姿があった。

「背筋は普段のランニングとかスクワットでつけることができるけど、腹筋は鍛えないとつかない。遠征中はホテルに戻ったあと、深夜から廊下に並んでやったこともありました」(千賀)

 その努力の甲斐あって、3カ月後、久しぶりにキャッチボールをして驚いた。「相手に届くまでのスピードが、明らかに速くなっているのが自分でもわかった」と衝撃を受けた。
ピッチングの際、スピードガンに目を向けると150キロの大台に到達していた。

 剛腕の基礎はできあがったが、まだそれは”エース道”の序章にすぎなかった。ただ速いだけでは通用しないのがプロ野球の世界。150キロ以上を投げる投手がいつまでもファームから抜け出せず、未勝利のままユニフォームを脱いだケースなど挙げればキリがない。

 千賀がまだ育成選手だったプロ1年目のオフから現在に至るまで、毎年欠かさず継続していることがある。それは1月にアスリートコンサルタントの鴻江寿治(こうのえ・ひさお)氏が主宰する自主トレ合宿に参加することだ。



 鴻江氏は独自の骨幹理論に基づき、体のタイプを「うで体(猫背タイプ)」と「あし体(反り腰タイプ)」に分けて、それぞれの体の特徴に合った動作や調整法を唱えている。

 千賀が鴻江氏と接点を持ったのは、ルーキーだった2011年の秋だった。当時、いちばん可愛がってくれていたチームの先輩である近田怜王(ちかだ・れお)が、翌年の1月にこの合宿に初めて参加することが決まっていた。そこで近田から「千賀も一緒にお願いできませんか」と頼んできたのである。

 近田は「中日の吉見(一起)さんも来るらしいよ」と話していたようで、愛知出身の千賀にしてみれば「あの吉見さんと!」と大喜びしたという。

 また近田は「まだ育成選手でお金がないだろう」と、期間中に泊まるビジネスホテルはツインの部屋を予約して居候させることにした。

 かくして迎えた2012年1月、合宿に行った千賀は仰天した。そこにいたのは吉見だけではなかった。中日からのちにメジャーへ行くチェン・ウェイン、まだブレイクする前の大野雄大(中日)や安部友裕(広島)もいて、女子ソフトボール界のレジェンドである上野由岐子の姿もあった。

 これほどのメンバーが顔を揃えた合宿で、しかも今から8年も前のことだ。しかし、鴻江氏は千賀のキャッチボールを見た時の第一印象を、今もはっきりと覚えていた。

「当時はセットポジションではなく、振りかぶって投げていました。3球ほど見ただけで惹きつけられました。育成選手だけど、世界に通用すると。そのことは千賀本人にも伝えました。

 しかし、どれだけすばらしい球でも操れることが大切です。千賀も最初は力任せだけの、いわゆる”快速ノーコン”でした。そして高めの球はものすごい威力があるのに、低めは伸びずに垂れていたのも気になりました」

 それを改善するためのポイントは、左足の外側を捕手に見せることだと考えた。制球力向上のためには”ライン”をつくること。捕手のミットにめがけて1本の糸をイメージして、その軌道上にボールを通す。そして鴻江氏はこうアドバイスを送った。

「投げにいく時に左足の外側(スパイクのブランドマーク)を捕手に見せる。そこに自分の目があると思って、その部分で捕手のミットを見るつもりで投げてごらん」

 このひと言が千賀を覚醒させた。世界に通用する威力のあるボールが、低めにもグンと伸びるようになったのである。

 ちなみに、キャッチボールの相手をしてくれたのは吉見だった。まだ寒い1月、千賀のボールを受けた左手は激痛に見舞われ、吉見は何度も顔をゆがめていた。

「あいつ、いい根性してますよ」

 吉見はそう苦笑いを浮かべたが、そのキャッチボールのように遠慮なく懐に飛び込んできて、どんな小さなことでも吸収しようとする千賀の姿勢を喜んだ。そして自主トレ先を離れる際、吉見は千賀に愛用のスパイクをプレゼントした。そのスパイクは今でも千賀の実家に大切に置かれている。

 鴻江氏のひと言で投げる基礎ができあがった千賀は、そこから驚くほどの速さで成長を遂げていった。

 その後も毎年、千賀は「自分の原点はここにある」と鴻江氏の指導を仰ぎ、1年のスタートを切っている。今年はソフトボールの上野のほか、巨人の菅野智之も参加したことで日本一豪華な自主トレが実現した。

 千賀は今年で節目となるプロ10年目を迎えた。これまで数々の実績を残してきたが、安定を求めるつもりはない。そして5月には、思わずハッとするような大胆発言をしている。

「今までのものをすべて捨てて、新しいことをやっています。今までが”千賀A”ならば、今回は”千賀B”というくらい違うものです」

 とにかく千賀は向上心の塊のような投手だ。近年はダルビッシュ有(カブス)とも親しくしており、ピッチングについて深く掘り下げて勉強するようになった。

 今はどのような方向性で固めていくのか、試行錯誤しながら進めているようだが、みんなが騒然とする、あっと驚くパフォーマンスを発揮するかもしれない。