ファンタジスタ×監督(最終回)
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 2022年カタールワールドカップに向けて、セルビア代表はドラガン・ストイコビッチを新監督に招聘した。

 セルビア代表は、1992年のユーゴスラビア解体でセルビア・モンテネグロ代表になった後、2006年にモンテネグロが独立したことで誕生している。

2010年、2018年のワールドカップに出場したが、グループリーグを突破できず、EURO2020も予選敗退(コロナ禍で本大会は未開催)に終わっている。そこでユーゴスラビア時代の英雄、ストイコビッチに白羽の矢を立てたというわけだ。

 セルビアの名将と言えば、ブヤディン・ボスコフだろう。日本では中田英寿が在籍したペルージャの監督としても知られている。

「サッカーはサッカー」「審判が笛を吹いた時がPKだ」「勝つことは引き分けるよりいい。引き分けは負けるより良い」......これらの言葉が欧州サッカー界に名言として残るのは、相応の経歴を残したからだ。

 レアル・マドリードでは就任1年目でリーガ・エスパニョーラ、スペイン国王杯の二冠に導き、2年目でチャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)決勝に進出させた。サンプドリアではセリエA優勝、コッパ・イタリア連覇、カップウィナーズカップ優勝、チャンピオンズリーグ決勝進出と黄金期を作った。

 セルビアは天才的選手を多く輩出してきたが、指導者で大成したのは、他にボスコフの愛弟子ラドミール・アンティッチなど、片手で足りるほどだ。天才的だったが故に、独自性も強い。感覚が鋭敏で、他と折り合いをつけられないところがある。人情に厚く親分肌である一方、頑固で独善的になりやすい。

"瞬間風速"はとてつもないが、中長期的に結果を出しにくい傾向がある。

 天才ストイコビッチは、まさにそんなセルビアを代表するサッカー人だ。選手時代、そのプレーは幻想世界を作ったが、堕天使のごとく悪態もついた。今もJリーグ歴代レッドカード枚数は破られていない。

ストイコビッチがセルビア代表監督就任。Jリーグで優勝も「名将...の画像はこちら >>

名古屋グランパスを6年にわたって率いたドラガン・ストイコビッチ。今年3月、セルビア代表監督に就任した

「絶対的なボス」

 それが選手たちの監督評だが、稀代のファンタジスタは、名将の域に入るのか?

 1990年、イタリアワールドカップはファンタジスタが百花繚乱の大会で、ストイコビッチはユーゴスラビア代表として華を添えている。

決勝トーナメント1回戦、スペインを延長の末に下した試合では、左からのクロスに対してトラップだけでマーカーを翻弄し、一撃を決めた。FKでは、壁の外側から巻き込むボールをネットへ蹴り込んだ。

 だが、準々決勝ではディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンにPK戦の末に敗退。ストイコビッチはPKを外した。

 マルセイユのエースとして、チャンピオンズリーグ決勝に二度立ち会っている。しかし、一度目(1990―91シーズン、相手はレッドスター・ベオグラード)はケガで先発を外れ、延長戦に出場もチームは敗れた。

二度目(1992―93シーズン、相手はミラン)は勝利したが、ストイコビッチはケガでプレーできなかった。悲劇性が天才性と重なる。

 1994年から8シーズンにわたってプレーした名古屋グランパスでは、1995年に年間MVPに輝いた。GKのパントキックを直接ゴールへ放り込むなど、ボレーシュートはお手の物、豪雨の試合でリフティングしながらボールを運ぶシーンは今も語り草になっている。そしてFKでは、どこからであろうと様々な変化をつけ、ゴールに突き刺した。

◆日本サッカーの概念を超越した選手。

プレーは自由奔放で弾けていた>>

「ピクシー(ストイコビッチの愛称)ほどキャリアのある選手が、練習からがむしゃらで驚きました。練習で負けるのは試合で負けるのと同じだった」

 当時、グランパスに所属していた福田健二(現横浜FC強化ダイレクター)はそう証言している。連敗を止めるゴールをストイコビッチのパスで決めた次の日のことだった。

「『昨日はおめでとう、次も頼むぞ』というメッセージと一緒に、アルマーニのベルトが更衣室のロッカーに置いてあって、ピクシーのおかげでゴールできたのに、あれは感動しました。こういう男になりたい、と思いました」

 その求心力が、監督1年目の2008年には生きていた。思うがままボールをつなげ、相手を幻惑。

バックラインに若き日の吉田麻也を抜擢し、フローデ・ヨンセン、マギヌン、小川佳純、玉田圭司など、どこからでも得点を狙えた。攻撃的にボールを動かして主導権を握る一方、守備も堅さを見せた。優勝は逃したが、3位は勲章だった。

 名将の兆しが見えた。就任3年目、Jリーグで優勝したのはひとつの結実だった。

 優勝したチームは高さとパワーを感じさせたが、1年目の斬新さは消えていた。チーム戦術よりも、個の力が目立った。絶対的な人気で有力選手を集めたが、チームは緩やかに下降線を辿った。2011年は2位、2012年は7位、2013年は11位と低迷し、ひとつの時代が終焉した。

 その後、ストイコビッチは中国の広州富力を2015年途中から5シーズンにわたって率いたが、タイトルどころか、ACLにも届いていない。イスラエル代表FWエラン・ザハヴィ(PSV)に2017年、年間最優秀選手賞、得点王を受賞させ、2019年にも二度目の得点王に輝かせたのはひとつの功績か。ただし、画期的サッカースタイルの確立には至っていない。

 セルビア代表監督として、ストイコビッチは集大成を見せられるのか。

「サッカーは予測できない。考えたことと逆のことが起きることもしばしば。それもサッカーだ」

 ストイコビッチはしばしばそう言う。

 少なくとも、彼はベンチにいるだけで雰囲気がある。Jリーグ監督時代、タッチラインを割ったボールを革靴で70メートル先の敵ゴールに蹴り込んでいる。あんな芸当ができるのは、世界でストイコビッチだけだろう。