ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第2回:長沢駿(京都サンガF.C.)/前編

長沢駿はなぜ、36歳にしてJ1へキャリアアップできたのか「1...の画像はこちら >>
 36歳の長沢駿にこの春、小学5年生だった自分から手紙が届いた。遡(さかのぼ)ること25年前。
11歳の記念行事で埋めたタイムカプセルが開封されたという。そこには「サッカーが大好きな、サッカー小僧」の言葉が並んでいた。

「ぼくの25年後といえば、プロサッカー選手ちょうど引退後でしょう。25年後のぼくはどーなってるでしょー
まずあることはけがだらけと毛もへっているでしょう
25年後になる前にオレは死なん。
オレの目ひょうは一つ、プロになる
2つ、金さん銀さんのきろくをぬくことだ。(原文ママ)」

 漢字とひらがなが入り混じった手紙に当時、彼が描いていた夢が垣間見える。

「ケガだらけで毛も減ってる、とはわれながらうまいなって思ったんですけど(笑)。本気でプロを描くようになったのは清水エスパルスユースに入ってからだから、当時はまだなんとなく口にしていただけだと思います。でも、36歳で引退後とは......そこは結構、現実的に考えてますね(笑)。いい意味で予想を覆せていてよかったです」

         ◆         ◆         ◆

 2007年に清水エスパルスで"プロサッカー選手"という夢を実現した長沢はプロ19年目を迎えた今年、京都サンガF.C.に加入した。「ちょうど引退後」どころか、J2の大分トリニータからJ1の京都へ、36歳での異例のキャリアアップだ。

「周りにも驚かれましたけど、僕も奇跡の移籍だと思っています。

もちろん、常にサッカーに対して真っすぐに向き合ってきたことや、本当に毎日、その時々の100%でやってきたことに嘘はないです。

 でも今の時代、この歳で契約をしてもらうのは簡単じゃないというか。実際、一昨年も一度、大分で契約満了を言い渡されているし、(再契約になった)昨年もチームで一番点を取ったけど、契約満了になってしまったので。

 それを"時代"とか年齢で済ませてしまうのは悔しいなと思いつつも、何が正解かわからなくなっていた自分もいたなかで、京都から声をかけていただいた時は、本当にうれしかった。何より『ああ、見てくれている人は必ずいるんだな』と実感できたことは、あらためてやり続けることの大切さを教えられた気がしています」

 その事実は彼のなかに、新たなモチベーションを芽生えさせたという。

「ベテランだってやれるって姿を、こうしてチャンスをもらった僕が証明しないと、年齢を理由にピッチを去っていく選手がどんどん増えてしまう。そうではなくて、キャリアを重ねた選手でも『長沢みたいな例もあったし、まだまだ何が起きるかわからないな』って思ってもらえるように、点を取り続けたいと思います」

 その言葉にもあるとおり、"点を取る"ことでキャリアを積み上げてきた。転機になったのは、清水エスパルスからの期限付き移籍で経験を積んだJ2リーグでの3シーズンだ。

 2007年にトップチームに昇格して4年。足元のテクニックを武器にしていた192cmの大型FWは、ほぼ試合に絡めない時間を過ごしてきたことへの危機感もあって、2011年にロアッソ熊本への期限付き移籍を決断する。さらに2012年は京都サンガF.C.、2013年は松本山雅FCへ――。その過程で出会ったさまざまな指導者からのアドバイスは、長沢の"点取り屋"としての嗅覚を研ぎ澄まさせた。

「アカデミー時代から足元のプレーを得意としてきたんですけど、当時から背が高い=周りにはヘディングが強いと思われがちだったんです。僕にしてみたらたまたま背が伸びただけで、背が高い=ヘディングが強いとは限らないでしょ、と思っていたんですけど(笑)。

 ただ、プロになって、自分の武器を見つめ直していくうちに『背の高さも生かさないともったいないよな』って感じるようになっていたんです。だからといって、すぐに生かせるものではなく......実際に生かしきれずにいました。

 そのなかで、2011年の熊本では高木琢也監督に、ヘディングのコツというか、『ボールの回転を見て、内巻きならどこに当てるとカーブがかかる』みたいな細部を伝授してもらって。また、2012年の京都では大木武監督に動き方のところで、『クロスボールには相手の前に入っていけ』と言われ続けました。

 でもその時は、まだピンときていなかったんです。それは松本時代も同じで......。そのふたつを意識してプレーしてもしっくりきていなかった。なので、それが本当の意味で自分のものになったと感じたのは、2014年に清水に復帰してからでした」

 事実、熊本でこそ8得点を刻んだ長沢だったが、京都では1得点、松本でも3得点にとどまり、明確な"数字"にはつながっていない。それでもコンスタントに公式戦を戦いながら、自分なりに細部を意識してチャレンジを続けた経験は、2014年の清水で花開く。その証拠に、同年のJ1リーグ戦で開幕スタメンを飾ると、3月19日のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)第1節、ベガルタ仙台戦を皮切りに公式戦5試合連続ゴールを挙げて成長を示した。

「『こうやって入っていけば競り勝てるんだ』『仮に自分が合わなくても自分の後ろにいる選手が点を取れるよね』ってことが、手に取るようにわかったのが2014年で......。それが数字に表われるようにもなり、初めて自分でも"つかんだ"という感覚になれました」

 残念なことに、直後のJ1第8節、徳島ヴォルティス戦で右膝前十字靭帯断裂の大ケガを負ってしまい、戦線離脱を余儀なくされてしまったが、約7カ月後の第33節、柏レイソル戦で戦列復帰。72分からピッチに立つと、81分にゴールネットを揺らした。「取れる」という自信は色褪せていなかった。

 そんな長沢が初めてのふた桁得点を実現したのは、ガンバ大阪に移籍してからだ。2015年夏に、前年度のJリーグチャンピオンチームからオファーを受けて完全移籍を決断すると、同年こそなかなか試合に絡めず苦しんだものの、2016年はJ1開幕戦からピッチに立ち、第2節のヴァンフォーレ甲府戦でシーズン初ゴール。特にセカンドステージではチーム最多の6得点を挙げて気を吐き、リーグ戦で計9ゴールを挙げて自身のシーズンキャリアハイを更新した。

 その勢いは2017年にも継続され、キャリアで初めてJ1リーグの全試合に出場。チーム最多の10ゴールをマークして攻撃を牽引した。

「自分の動きに合わせてくれるクオリティの高い選手が周りにたくさんいて、ピンポイントで前線にボールがバンバン送り込まれてくるガンバで、より点を取る感覚が上がっていく気がしました。ヘディングでのゴールも多かったんですが、入り方のコツをつかんだことで、絶対に決められるという自信もあった。

 でも、その"取り方"を論理的に説明できるかと言えばそうではなくて。

あとから映像で見返しても、自分でも『そんな動きをしていたのか!』って驚くことが多かったんです。つまり、それはキャリアで積み上げてきたことがようやく"感覚"として備わったということ。実際、今もゴール前では無意識で動いた時のほうが点を取れる気がします」

 加えて、その姿は長沢が常に自身に求めてきた「FWは点を取ってナンボ」という信念にも後押しされたものだ。キャリアアップを目指したガンバでの1年目は厳しいポジション争いのなかでメンバー入りすらできない状況が3カ月以上続いたが、愚直に点を取ることを求め続けた日々は、決まってのちに肥やしとなり、得点につながった。

「ガンバに限らずJ1クラブになると、FWの1枠はほぼ外国籍FWが預かるので、日本人FWは残りの1枠を争うことになる。そのひとつをつかむにはやっぱり、結果なんです。

 それに、FWはぶっちゃけ、89分間いいプレーができなくても残り1分で点を取れば、ヒーローになれるポジションなので。プロとして戦い続けたいなら得点で自分を証明するしかない。それは、どんな状況に置かれても意識してきたし、そのことから逃げなかったことだけは自分に胸を張れることだと思っています」

 ガンバを離れて以降も、在籍したチームで必ず得点を挙げてきたのもそのプライドを示すものだろう。2018年夏に加入したヴィッセル神戸での半年も、仙台で過ごした2シーズンも、そして2021年から在籍した大分での4シーズンも無得点に終わったシーズンはなく、むしろほとんどのシーズンで、チームで1、2を争う得点数を刻んできた。

 でも、だからこそ――チーム最多得点を挙げた昨シーズンを終えて、大分を契約満了になった事実は重くのしかかった。

(つづく)◆悩める長沢駿にすべてを見抜いていた曺貴裁監督からの叱咤>>

長沢駿(ながさわ・しゅん)
1988年8月25日生まれ。

静岡県出身。清水エスパルスのアカデミーで育ち、2007年にトップチームへ昇格。2011年にJ2のロアッソ熊本へ期限付き移籍。翌2012年には同じくJ2の京都サンガF.C.へ、2013年には松本山雅FCへ期限付きで移籍した。その後、2014年に清水へ復帰し、2015年にガンバ大阪へ完全移籍。以降、ヴィッセル神戸、ベガルタ仙台、大分トリニータでプレーし、今季から京都に加入。得点感覚に優れた大型ストライカーだ。

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