近賀ゆかり引退インタビュー 前編
(後編:近賀ゆかりにとってなでしこジャパンは「目指す場所じゃなくて、居たい場所だった」>>)
またひとり、女子サッカー界のレジェンドがスパイクを脱いだ。2011年ドイツワールドカップを制した21人のひとり、近賀ゆかりのラストシーズンは波乱含みではあったが、彼女らしさが満載だった。
そこでは叶わなかったゴールも最終節ではアウェイの新潟の地でしっかり決めた。背負い込みすぎず、自然体でありながら熱くサッカーと向き合ってきた。女子サッカー界から深く愛された近賀のサッカー人生を彼女とともに振り返る――。
【旧友と戦ったラストマッチ】
――ホーム最終戦では叶いませんでしたが、最終戦で納めのゴールを決めるとは、やはり持っている側の人、でしたね。
近賀ゆかり(以下、近賀)(ゴールが)決まった瞬間は、「えっ?」って感じでしたけど、ラッキーでした。藤生(菜摘)がシュート打つっていうのはもう雰囲気としてあって、あの角度でバシっとはなかなか決まらないだろうからこぼれてくるだろうな、と。ただ、ホントにたまたまで(笑)。
――相手のアルビレックス新潟レディースには、なでしこジャパンでともに戦った有吉佐織選手、川澄奈穂美選手、上尾野辺めぐみ選手がいました。ラストマッチはいかがでしたか?
近賀 最後が新潟というのは本当に運命ですよね。幸せでした。対峙しているんですけど、同じピッチのなかにいるので懐かしい感じがするんです。
――タイミング的にも選手側からの発信でないとアウェイであそこまで色々できないですよね。あれを計画したのはきっと......?
近賀 川澄でしょう。指示を出している絵が浮かびますよね(笑)。そういう仲間に見守られながらの試合で力を出し尽くしました。最後の瞬間はそんなに「引退!」みたいな感情じゃなく、いつもの1試合で全力を尽くした感覚でしたね。目標にしていた3位に届かなかったのは悔しかったです。だけど......引退の実感がないんですよ。今もまだ(笑)。
【最後の地・広島で伝え続けたこと】
――WEリーグができる前は、海外にも出て、なでしこリーグ2部にも身を置きました。5年前の当時36歳の近賀さんのもとに広島からのオファーが来たときは即決でしたか?
近賀 年齢的にも「自分でいいのかな」っていうのが正直ありましたけど、オファーがくる全然ずっと前、サンフレッチェ広島に女子チームができるって聞いたとき「めちゃくちゃいいじゃん!」って思ったんですよ。
――これまでにもレジーナの選手に何度も話を伺っていますが、近賀さんのことを聞くとみなさん開口一番に「近さんにはもういっぱい怒られました~」ってすごい笑顔で言うんです。このご時世、"怒る"って難しいじゃないですか。ぜひ、その極意を教えてください。
近賀 え......そんなに怒ってきたのかって今、驚いています(笑)。でも確かにそう言われたら、いろいろ伝えた自覚はあります。自分のなかで『勝つため』が基本にあって、多分私に「怒られた」って言っている人って、やれる人だと思うんです。やれるのにやってないとか、本当はもっとできるでしょって思うから伝えたんだと思います。
――確認なんですけど、そもそも近賀さんってみんなを鼓舞して最前線で引っ張っていくというタイプではないような?
近賀 ないですよ、どう見ても(笑)。20代半ばまではそんな立場になかったし、ずっとヘタクソで、まずは自分がチームについていかないといけなかった。日テレ・ベレーザ時代に上の世代の人が抜けちゃって、いきなりキャプテンをやらないといけなくなったんです。まず「キャプテンって、絶対自分じゃない」っていうのを思いながらもその役割を任されていたから、追い込まれていくうちに、勝つためには自分が下手だとか言ってられない。
――勝つためにはしっかりと戦わなくてはならない。そこの部分はどう伝えていったんですか?
近賀 自分はベレーザから始まって、INAC神戸レオネッサ、そしてアーセナルを始め海外チームでもプレーをして、ずっとすごくいい環境にいたんですよね。もちろんなでしこジャパンもそうで、高いレベルにいさせてもらっていた。だから、たまに緩い感じの練習とかあると、「そりゃこういう感じでやっていたら勝てないよな」っていう自分のなかのセンサーが反応するんです。そこが基準になっているから、レジーナにもそのレベルを求める。このあたりの緩さでかまわないとは思えなかったんです。もちろん葛藤もありました。
例えば、当時の中村伸監督が「今日の試合はよかった、できていた」って言うと、「え?よかった?」と思う自分がいる。
――そんなレジーナの成長を一番感じたのは?
近賀 最初は既存のチームに追いつこうと"成長"がキーワードだったんです。それが勝たなきゃいけないチームになってきたんですよね。そういうメンタルに変わったのは、(2023年の)カップ戦を獲ったところで自信がついて、そのあとの(2024年のカップ戦)2連覇が大きかった。あとは観客数が伸びたこと。この2つで勝たなきゃいけないっていう風にみんなが思えたんです。
――2023年のカップ戦前に柳瀬楓菜選手が「このカップ戦、本気で獲りにいきたい!」って近賀さんに言いに行ったと言っていました。こういう行動ひとつにも、いつも近賀さんとGK福元美穂選手が言っている、"誰かがやるんじゃなくて、自分がやる意識を持て"っていうものが根付いたところだと感じました。
近賀 それは感じましたね。でもその面で言うと、完全に福ちゃんの影響です。
――今さらですけど、近賀さんにとって付き合いの長い福元選手ってどんな存在ですか?
近賀 どんな存在か、ひと言では表わせないですね。本当に真逆なんですよ。ただ福ちゃんだったから、みんなから「2人がいたから」と言ってもらえるようになれたんです。あの人がいなきゃ、私は成り立ってないと思っています。それこそ、何を伝えるのかってことも2人で話しました。今は昔と違ってみんな怒られてきていない子も多いので。福ちゃんは記憶力もめっちゃよくて、私は抜けているから全部記憶をカバーしてもらっていました(笑)。
【引退は自然と今だなと思えた】

近賀 この1、2年、年齢的にも引退というのは頭のどこかにありました。だけど、決め手がない。
これまでのキャリアでずっと毎シーズン1点は獲っていたんです。でも昨シーズンは1点も獲れなくて、心のどこかで1点も獲れなくなったら終わりだなって思っていました。試合にも出られていなくて、出ても結果が残せない時期が続いていたところにメンバー外になりました。でも「じゃあ、ここで辞めるか」って急にはなれなくて......。
だから、オフに結構走り込んだんです。練習量も増やしたらコンディションもよくなりました。今まで年齢で練習をセーブしなきゃいけないって思っていたのは、自分自身だったんだって気づかされました。これが最後って思ったからできたのかもしれないですけど、追い込みながら今シーズンはこれで勝負して、出られても出られなくてもここで終わろうと思いました。自然とここが一番いいタイミングで「今だな」と思えたんです。
――そう決めた矢先の前十字靭帯損傷(2024年10月)だったんですね。でもそれで、引退は来年に延ばそうとはならなかったんですか?
近賀 全然ならなかったです。むしろ最後なんだから絶対戻らなきゃ!って思った結果、驚異的なスピードでリハビリを頑張れたんだと思います。
――あのホーム最終戦で、両チームの選手たちで作られた花道を通ってピッチをおりる姿や、近賀さん福元選手の背中を追いかけてきたレジーナの選手たちの想いが、すべてのチームを動かした映像を見て、女子サッカー界全体から愛されているんだと感じました。でもそのあとに言っていた「近賀ゆかりが近賀ゆかりじゃない気がしていた」っていう言葉がすごく重くて......そのギャップをどう埋めていたんですか?
近賀 何度も言いますが、私は人に恵まれているんです。本来、あんなすばらしいセレモニーをしてもらえるような選手じゃないんですよ。どっちかと言ったら、試合に出ていても目立たないところにいて、チームの真ん中にいるタイプじゃない。これまでは他にそういう"真ん中"な人がいたから。
広島にきて、その役回りをしなきゃいけなくなって、ギャップを埋めるというよりは、自分がここにきた理由なんだと受け入れました。広島の人はW杯に出ていた選手がきてくれた!ってすごく言ってくれるんです。確かにそれは事実だから、その役割を果たさないと、出るときは出ないといけないって。前に立つ責任を持って、しっかり4シーズン向き合ってこられたと思っています。でも、もしほかに前に立つ人がいたら「お願いします!」ってなっていましたよ(笑)。
***
そう話す彼女の表情は朗らかだった。苦しさを感じながらも、近賀ゆかりというフットボーラーは自然体でいられる。すべてを受け止めて、常に高い基準を自分の内に持ち、最後まで一切の妥協を許さなかった。レジーナの選手たちを見れば、近賀がたどった道筋をなぞらえることができるだろう。当分、寂しさは拭いきれないが、彼女が下した決断が今だったことに間違いないのはわかる。心からそう納得できる、すばらしい旅立ちの形だった。
(つづく)
Profile
きんが・ゆかり/1984年5月2日生まれ、神奈川県出身。
2003年に日テレ・ベレーザに入団し、FWとして新人賞を獲得。7年在籍後、INAC神戸レオネッサ、アーセナル・レディースFC(イングランド)、メルボルン・シティWFC(オーストラリア)など、国内外のチームで経験を積んだ。2021年には、新設のサンフレッチェ広島レジーナの初期メンバーとして入団し、キャプテンとしてチームを牽引。3年目にはチーム初タイトルとなるWEリーグカップを制覇した。
なでしこジャパンとしては、2004年のアテネ五輪にバックアップメンバーとして登録され、コンスタントに招集されるようになった。2007年にサイドバックにコンバートされてからは、不動の右サイドバックとして活躍。2011年ドイツW杯優勝、2012年ロンドン五輪銀メダル、2015年カナダW杯準優勝に貢献した。