【新連載】Jリーグ語り草(1)
坪井慶介の2006年
「浦和レッズ初優勝。史上初ホーム無敗の舞台裏」中編

◆坪井慶介・前編>>「小野伸二でさえベンチに回ることも珍しくなかった」

 2006年の浦和レッズは「優勝することがノルマ」というほど、充実した戦力を誇っていた。

小野伸二、長谷部誠、鈴木啓太、田中マルクス闘莉王、三都主アレサンドロ、ワシントン、ポンテ......錚々たるメンツと、坪井慶介は切磋琢磨し合った。

 プロ5年目の当時26歳。日本代表では守備陣に欠かせぬ存在となり、ドイツワールドカップのメンバーにも選出されるなど、坪井は順風満帆なシーズンを送っていた。

 しかし、リーグ残り10試合のところで左ひざのじん帯を痛め、戦線離脱を余儀なくされる。優勝に向けて勝ち星を積み重ねていくチームの雰囲気と、対してピッチに立てなくなったしまった自身の心境を振り返ってもらった。

   ※   ※   ※   ※   ※

2006年の浦和レッズはなぜ強かったのか 坪井慶介「チームに...の画像はこちら >>
 開幕から好スタートを切りましたけど、正直、行ける(リーグ優勝できる)という手応えがあったわけではありません。カップ戦の優勝はあったにせよ、長丁場のリーグ戦ではタイトルを獲ったことがないので、獲るために何が必要かをわかっていなかったところもあります。

 9節の清水戦で初黒星(1-2)を喫すると、11節の千葉戦でも完敗(0-2)を喫しました。常に上位争いを演じていましたけど、盤石ではなかったのも確かです。

 ただ一方で、内容がよくなくても、勝ち点を取りきる力はあったと思います。快勝する試合もありましたが、負けそうなところをワシントンの1発で引き分けに持ち込んだり、土壇場のゴールで勝ちきったりする試合が多かった。ずば抜けて強かったわけではなく、悪い内容でも勝ち点を失わない──そんな戦いが続いていましたね。

 ある種の開き直りがあったかもしれません。実は戦い方がしっくりきていないという感覚はあまりなくて、内容うんぬんより、「最終的に勝てばいいんでしょ」っていう考えがありました。これは僕だけじゃなく、チーム全体にそういう雰囲気があったと思います。

 とりわけ、ホームでは絶対に負ける気がしませんでした。この年は毎試合のように埼スタに5万人近く入っていましたし、サポーターが作ってくれる雰囲気はやっぱり心強かったですね。

【闘莉王は勝手に上がっていく】

 おそらく当時では唯一、浦和は相手にアウェーを感じさせられるチームだったんじゃないでしょうか。実際にこの年は、ホームで一度も負けることはありませんでした(15勝2分でJリーグ史上初のシーズンホームゲーム無敗を達成)。

 個人的に好きなのは、入場する時です。埼スタは階段を上がってピッチに入るのですが、下から上がってくると、パッて視界が開けて、真っ赤に染まったスタンドが目に飛び込んでくるんです。あの瞬間、「やっぱりウチのサポーターはすごいな」と毎試合のように思っていました。

 圧倒的な雰囲気を作ってくれるから、もう、やるしかないんです。逆に変な試合をすれば、厳しいことを言われてしまう。この年は批判を浴びることは少なかったかもしれないですけど、過去にはバスを囲まれたり、卵をぶつけられることもありました。

決していいことではありませんが、サポーターの皆さんも本気なんですよ。

 本気で怒って、本気で喜んで、本気で泣いて、僕らと一緒に本気で闘ってくれている──。その思いが伝わってくるからこそ、僕らはやるしかなかったですね。

 戦術がなくても、僕らには阿吽(あうん)の呼吸があったと思います。役割分担はすごくはっきりしていましたね。

 たとえば、攻撃好きの闘莉王が頻繁に上がっていくシーンがクローズアップされましたけど、別に闘莉王から「俺、上がるから、ちょっと後ろは頼むよ」なんて言われたことはありません。気づいたら勝手に上がっていくんですよ(笑)。

 でも、僕らはそれを彼のよさだと理解していたし、実際に結果も出してくれる。だから、彼が上がっていけば、僕と(鈴木)啓太でカバーすればいい。それは決まりごとではなく、自然と身についたものでした。「啓太、行ったよ」「ツボ(坪井)、任せたよ」という感じで、言葉がなくとも勝手に身体が動いていた感じですね。

 自由奔放だけど攻守両面で力を発揮した、闘莉王の存在感は大きかったです。

だけど、一番頼りになったのはポンテですね。点を取るという部分ではワシントンのほうが上でしたけど、ポンテの場合は苦しい時に結果を出してくれる。そういうイメージが強かったですね。

【なぜ無理をしてしまったのか】

 もちろん、(小野)伸二も重要な存在でした。ポンテもそうですけど、伸二は技術が高いので、ボールを預けておけばなんとかしてくれるという信頼がありました。

 だから僕らは、守備をしっかりとやってボールを奪えば、「あとは頼んだよ」という感覚でしたね。たまに僕も駆け上がったりしましたけど、基本的にはそれぞれの特長を踏まえた役割が決まっていて、それを全うするというチームだったと思います。

 ただ、チームはしっかりと結果を出していた一方で、個人的にはシーズン途中から厳しい状況に陥りました。

 6月にワールドカップ出場という目標は達成できましたが、そこで結果を出せなかったことは本当に悔しかった。代表から帰って「Jリーグで巻き返したい」という思いはありましたが、新しい代表にも呼ばれるなかで、非常にタフなシーズンでした。

 ワールドカップはプレッシャーも大きかったし、肉体的に疲弊したところもあります。いろんなことが重なるなかで、コンディションがうまく戻らなかった部分もありました。

 そんな状態で試合に出続けていて、25節の京都戦で左ひざのじん帯を痛めてしまったんです。

 そこから3試合休んで、29節の磐田戦で復帰しました。ですが、再び同じ箇所をやってしまい、前半だけで交代になりました。

 今だから言えるのですが、そもそも磐田戦には出られる状態ではありませんでした。全然治ってなかったんですよ。でも、ギド(ブッフバルト)に直接「行けるか?」って聞かれて、「行けます」って言っちゃったんですよね。

 メディカルは「無理だ」という判断だったんですけど、僕とギドの間で決めてしまって......。それで無理やり出たんですが、開始2分くらいでまた痛めてしまいました。前半だけがんばってやったんですけど、もう無理だなと。

 今、思うと、なんで無理をしてしまったのかなって。僕の休んだ3試合も、別に結果が出ていないわけではないんですよ。だから無理をする必要がなかったんですが、監督の思いに応えたかったんでしょうね。

【代わりに誰が出ても結果を残す】

 もちろん、ギドが悪いわけじゃない。

僕自身もケガのことをあまりわかっていなかったんだと思います。

 それまでに一度、大きなケガをしたことはあったんですが、ひざを痛めたことは初めてでした。「簡単じゃないよ」とは言われていたんですが、ちょっと軽く見ていたんでしょうね。いけるかなと思って出たら、全然いけなかった。さすがにこの時はショックでしたね。

 でも、このケガをきっかけに、あらためてこのチームの強さを認識することができました。

 僕自身はもうプレーもできないくらいのケガだったので、あきらめがつきましたし、とにかく勝ってほしいという思いだけで、みんなに優勝を託そうと。そのあたりからですかね、現実的に優勝を意識し始めたのは。

 その頃は僕だけじゃなく、ちょっとずつケガ人が出ていたんですが、代わりに誰が出ても結果を残すことができていたんです。外から試合を見るなかで「これは本当に強いチームなんだな」と実感しましたし、優勝というものが現実的に近づいていることを感じていましたね。

(つづく)

◆坪井慶介・後編>>19年後の後悔「2度目の優勝をもたらせなかった」


【profile】
坪井慶介(つぼい・けいすけ)
1979年9月16日生まれ、東京都多摩市出身。四日市中央工→福岡大を経て2002年に浦和レッズに加入する。

プロ初年度から存在感を示して新人王受賞。2003年には日本代表に初招集され、2006年ワールドカップも経験。浦和では在籍13年間でリーグカップ、天皇杯、J1リーグ、ACLのタイトルを獲得し、2015年に移籍した湘南ベルマーレでもJ2リーグ優勝に貢献した。2019年にレノファ山口で現役引退。現在はサッカー解説者として活躍中。国際Aマッチ出場40試合0得点。ポジション=DF。身長179cm、体重70kg。

編集部おすすめ