プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(18)

(連載17: 髙田延彦のUWFインター時代 元横綱・北尾光司を一蹴して「最強」を証明>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第18回は、前回、前々回に続いて髙田延彦。今回は伝説の武藤敬司戦、格闘技ブームを巻き起こすきっかけとなったヒクソン・グレイシー戦に迫ります。

髙田延彦vs武藤敬司の熱狂、ヒクソン戦の放送にまつわる裏話を...の画像はこちら >>

【髙田vs武藤の解説席で、猪木の表情に異変】

――1991年1月に髙田さんが設立したUWFインターナショナル(UWFインター)は、1994年頃に経営難に陥りました。髙田さんは1995年6月に「近い将来、引退します」と発表。4カ月後の10・9東京ドーム、「新日本プロレスvs. UWFインターナショナル全面戦争」で、武藤敬司さんに足4の字固めで敗れています。

柴田:あれは、経営状況が厳しくなってとことん追い込まれて、新日本との対抗戦に踏みきったんです。"最後のカード"を切ったというか、イチかバチかの大勝負に出たんですよ。

 1995年、武藤さんはIWGPヘビー級王者としてG1 CLIMAXで優勝。いわば"最高で最強の男"ですから、髙田さんが挑戦する形になりました。髙田さんも中途半端な選手と戦うわけにはいかないし、新日本も最高のシチュエーションを準備したわけです。

――試合は最後、武藤さんがドラゴンスクリューからの足4の字固めで勝っていますね。

柴田:武藤さんは"これぞプロレス"みたいな古典的な技を選択しましたね。

 ただ、あの試合で僕は(アントニオ)猪木さんと並んで解説をしていたんですけど......武藤さんがいつものように派手なガウンを着て入場し、コールと同時にいつものポーズを取った時、猪木さんはそれを厳しい表情でにらみつけていた。完全に怒りの顔でしたね。

 猪木さんとしては、新日本とUWFインターの団体対抗戦の頂点対決だから、緊迫感にあふれた格闘技戦のようなファイトを思い描いていた。ところが、武藤さんは普段通りで超華やかでしたから、猪木さんは納得がいかなかったんじゃないかな。武藤さんも「あとで猪木さんに怒られた」ってボヤいていましたよ。僕も解説をしながら「試合中に猪木さんが何か言い出すんじゃないか」と心配しましたけど、さすがに厳しいことは口にしなかったですね。

【強過ぎた初戦のインパクト】

――試合の内容はどうでしたか?

柴田:ものすごく盛り上がりましたね。髙田さんは団体のすべてを背負っているからちょっとナーバスになっていたけど、武藤さんはマイペースを貫いた。それが功を奏したんじゃないですかね。

 そういえば、髙田さんが負けて下がろうとした瞬間に、誰かが「前田(日明)が泣いてるぞ!」って叫んだんです。誰が言ったかはわからないけど、テレビ中継でもしっかり声をとらえていて、波紋を呼びましたね。髙田さんの耳に届いたかは微妙だけど、UWFファンとしてはつらい光景だったでしょう。

――対抗戦のチケットは即完でしたね。

柴田:10・9の観衆は6万7000人。UWFインターに振り分けられた分はすべて売れたけど、チケットを欲しがるファンの問い合わせは止まらない。UWFインターにとって大事なお客さんもいたでしょうね。

 新日本には頼めないから、僕に「チケット、なんとかなりませんか?」って聞いてくるんですよ。それで僕が、新日本に「田舎からみんなが来るんで、30枚なんとかなりませんか?」とお願いして、本当になんとかチケットを購入して、UWFインターに渡しました。それくらい売れましたね。

――1996年1月4日には、髙田さんが東京ドームで武藤さんを下し、リベンジに成功。第18代IWGPヘビー級王者になっています。

柴田:ただ、どうしても最初の対決のほうがインパクトは強いですよね。"外敵"だった高田さんが新日本の最高のベルトを奪ったわけですから、その偉業はもっと評価されてもいいと思います。

――確かに、最初の試合の足4の字固めのイメージが強すぎますね。

柴田:髙田さんはIWGPのベルトを取ったあと、同年の4月29日に橋本真也さんに敗れてベルトを手放しています。

その試合も、もっと取り上げられていいのに、今ひとつですよね。それくらい、武藤vs高田の初戦がすごすぎました。

【UWFインター解散。因縁のヒクソン戦へ】

――その後、1996年に髙田さんは東スポプロレス大賞の「年間最高試合賞」を受賞していますね。

柴田:天龍源一郎さんと、神宮球場でやった試合ですね(9月11日)。屋外の神宮球場だから、天気のこともあるし、大変でしたよ。

――その 3カ月後、両国国技館で天龍さんと再戦(12月13日)。その試合で負けた2週間後に、UWFインター最後の興行が後楽園ホールで開催されました。

柴田:新日本との対抗戦で経営状態も改善されたのかと思っていたんですけどね。その後の新日本との抗争も、新日本に利益があっただけだったのかな......。UWFインターが髙田さんひとりに頼りすぎていたことも、この結末につながったんじゃないかと。

――でも、「NO FEAR」の高山善廣さんや桜庭和志さんなど、いい選手はいましたよね。

柴田:僕が思うに、UWFインターでは新日本や全日本プロレスほど、受け身の練習を重視していなかったんじゃないかと。髙田さんや山崎一夫さんは新日本でとことんやらされていたからいいけど、ほかの選手たちは......。だから、投げられたら大ダメージを負ってしまうシーンも多々あった。UWFインターは、プロレスでも格闘技色の強いスタイルだったけど、やはり受け身は大切ですね。

――UWFインター解散後、髙田さんは総合格闘家時代に突入。1997年10月11日に東京ドームで開催されたPRIDE.1で、ヒクソン・グレイシーと戦っています。

柴田:UWFインターに所属していた選手の多くは、新設された団体「キングダム」に入ったけど、髙田さんは入団しなかった。その頃には、ヒクソン戦の実現に向けて話が進んでいたからです。

 サイドストーリーになるけど、日本テレビのプロレス担当のプロデューサーから「ヒクソンvs.髙田って視聴率を取れると思う?」と相談があったんです。僕は「どうだろうね。一般のファンは、ヒクソンと聞いてもピンとこないかもしれない」って言っちゃって。それが影響したのかはわからないけど、結局はスカパー!のPPV(ペーパービュー)で中継された。

僕が「いける!」と言っておけば、地上波であの試合が放送されていたかもしれません。

――東京ドームは超満員、PPVも3万件超えでしたから、地上波放送でも視聴率は高かったかもしれませんね。

柴田:あとになって、「日本テレビには申し訳なかったな」と思いましたよ(笑)。

――ヒクソンに敗れたあと、髙田さんは「髙田道場」を設立。PRIDE.4でヒクソンと再戦しましたが、再び敗れました。

柴田:髙田さんはどちらの試合も、圧にやられたというか、ヒクソンに気迫で負けていたね。何年経っても残念です。髙田さんは、格闘技の選手としても非凡な才能があったと思います。でも、プロレスが体の芯まで染みついてしまっていたから、その才能を十分に伸ばせなかったのかもしれない。いい意味で、根っからのプロレスラーだったということだと思います。

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。

以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

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