ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第4回:中島裕希(FC町田ゼルビア)/後編
前編◆41歳・中島裕希が振り返る、波乱万丈のサッカー人生>>
モンテディオ山形を契約満了となった中島裕希は2015年12月。次なるチームを求め、初めてのトライアウトに参加する。
「前年度の山形でも途中出場は多かったものの、ほとんどの試合に出場していたこともあり、正直、トライアウトに出なくても僕のプレーを知ってもらっているだろうと思っていたので、当初は参加するつもりはなかったんです。でも、『まだやれるってことを、トライアウトで証明してみるのもいいんじゃないか』という代理人の言葉に一理あるなと思って参加したら、もう異様な空気で......。
参加選手それぞれに、所属先が決まっていない不安もあったはずだし、『初めまして』の選手も多いなかで、パッと集まって、知らない選手とチームを組んで試合をして、それをたくさんのスカウトの方たち、関係者の方たちに見られているわけですから。『そりゃそうだよな』と思うと同時に、自分もその空気を味わったことで、置かれている状況を実感し、気持ち的にもすごくハングリーになれた。そう考えても、めちゃめちゃいい経験ができたと思っています」
2016年のFC町田ゼルビアへの加入も、トライアウト後に同チームの相馬直樹監督に「(獲得を)考えているよ」と声を掛けてもらったのがきっかけだったという。結果的にいくつかのクラブからオファーが届いたものの、中島は鹿島アントラーズ時代のチームメイトで、山形時代は選手とコーチの立場で仕事をした相馬監督率いる町田でのプレーを選択した。
「山形に行った時もそうでしたが、自分のプレーを知ってくれている監督のもとでプレーできるのは有り難かったし、僕が加入した2016年は町田がJ2に復帰したシーズンでしたから。クラブとしてもステージが上がってここからまた上を目指してやっていこうという雰囲気があったなかで、その一員になれたのは......さっき言ったように、自分もここからまたハングリー精神を持って『上に』と思っていたからこそ、すごくよかったと思っています。
当時は、それこそクラブハウスもなくて、練習場も硬い人工芝のグラウンドや大学のグラウンドを転々としていたし、洗濯も自分でしていたような時代でしたけどね。でもその時々に出会った仲間にも恵まれて『自分たちの結果でこの環境を変えていこう』と立ち向かっていけたのは、すごく意味のある時間になったし、『町田のために』という思いもどんどん強くなっていきました」
それがまさか、10年も続くとは想像もしていなかったそうだが。
「"今"が大事と思って積み重ねてきて、気づいたら10年経っていたという感じで、自分でも驚いています。ただ今になって思うと、町田だから10年続けられたのかな、と。
それは、2023年に黒田剛監督が就任されてからも同じで......。ハイプレスで、インテンシティが高く、全員で守って全員で攻撃する、みたいな町田のサッカーが自分に合っていたのかな、と。裏を返せば、仮にもっと技術を求められる監督だったら、自分では物足りなかったかもしれない。そう考えても30代になって町田に来られたことが、今も現役を続けられている理由である気がします」
もちろん、求められることに応えようとするだけではキャリアを続けられないのが、プロの世界だ。本人は数字にはそこまでこだわっていなかったと言いながらも、2016年から始まった町田でのキャリアで、ほとんどの試合にピッチに立って3年連続ふた桁得点を記録したことや、監督から"必要とされる選手"であり続けてきた事実も、そのキャリアを重ねられた理由であるに違いない。
もっと言えば、ただガムシャラに戦っていた20代とは違い、キャリアを重ねるなかで「周りが見えるようになったし、自分自身のこともより理解できるようになった」ことも、チームの"駒"としての彼を際立たせたはずだ。「めちゃくちゃマイペース」と自認する、その性格にも支えられて。
「正直、ベガルタ仙台での最後のほうくらいまでは、試合に出られなかった時に『なんで俺を使わねえんだよ』と不貞腐れていた自分もいました。でもそれって、本当に無意味なんですよね。不貞腐れたところで試合に出られるわけでもないし、むしろチャンスは遠のくだけだし、いい評価につながることもまずない。チームの空気も悪くしちゃいますしね。
それを本当に理解できたのは......やっぱり2011年の東日本大震災の経験が大きかったかな。そんな態度をとって、今日という一日を無駄にするのがもったいないって思うようになったから。
以来、試合に出る、出ないに揺り動かされなくなったというか。もちろん、山あり谷ありで、いいことばっかりではなかったんですよ。J1昇格争いから、一転、J2残留争いに巻き込まれたシーズンもあったし、いつだって試合には出たいと思っていたけど、出られたわけでもない。
でも、今はもうその事実に気持ちが揺れたり、落ち込むことはないです。とにかく毎日手を抜かず、練習を100%でやって、求められることに全力で向き合うだけ。
そうやって懸命に過ごしていたから、サイバーエージェントが運営会社になってくれて、こんな立派なクラブハウスと練習場ができて、トレーニングのあとには食事も出るような環境でサッカーができるという今を経験できていますしね。そんなふうに『未来はわからない』ということもまた、今を頑張る励みになっています」
「いいこと」で言えば、2023年のJ2リーグを制して、町田に加入した時から目指し続けたJ1昇格を実現したことも、ひとつだろう。
「もう、めちゃくちゃうれしかったです。人や環境が変わるなかでも、自分自身の『町田のために』という想いには少しも揺らぎがなかったし、常々そこだけは誰にも負けていないと思って戦ってきたので。サポーターも含めて、このクラブに関わる人たちすべての想いがJ1昇格につながった瞬間は、仙台や山形で経験したJ1昇格ともまた違った、格別の喜びでした。
トライアウトを受けるところまで落ちた自分を拾ってもらって、このチームに求め続けていただいたことに対する恩返しは、それしかないと思ってサッカーをしてきたからこそ、時間はかかったけど、それが実現できて本当に......今思い出しても幸せな気持ちになるくらい、うれしかったです」
つけ加えるなら、昨シーズンの第33節・川崎フロンターレ戦で、中島にとっては2015年の山形時代以来となるJ1リーグでの9年ぶりのゴールを決められたことも、だ。
思えば、クラブ史上初めてJ1リーグを戦った昨シーズン。町田はタイトル争いに顔を出す快進撃を見せた。だが、7月末頃から勝点を落とす試合が増え、第29節の浦和レッズ戦での引き分けにより、長らく守り続けてきた首位の座を明け渡す。そうした状況下、中島が初めて先発を預かったのが、第30節のアビスパ福岡戦だ。この試合で3試合ぶりの白星をつかんだ町田はすぐさま首位の座を奪い返し、粘りを見せる。
そうして一進一退の首位攻防戦を繰り広げるなか、中島がシーズン初ゴールを挙げたのが、リーグ戦では3試合目の先発出場になった川崎戦だ。
結果的にその試合は逆転負けを喫し、シーズンを通しても終盤戦に勝ちあぐねてタイトルには届かなかったが、町田の最古参が終盤戦で示した"想い"も、川崎戦での一撃も、確かにチームの熱に変わった。チームキャプテンの昌子源が「(中島)裕希くんはいつも、その背中で僕たちに何をすべきかを示してくれた」と話したように。
「メンバー外が続いても、若い選手とキツい練習を積み上げながら手を抜かずに、ブレずに続けてきたなかでチャンスをもらって、あの得点を決められた。町田のためにという一心で戦ってきて、あの時初めて頑張ってきたことが報われたというか、『ああ、俺はこのために頑張ってきたんだな』と思えたんです。
ゴールの瞬間、サポーターも、チームメイトも、みんながめちゃめちゃ喜んでくれたのもうれしかった。
ちなみに、この40歳3カ月19日でのゴールは、J1年長得点記録の4位に。6月16日に41回目の誕生日を迎えた彼が今シーズンの残り試合でゴールを決めれば、3位の中山雅史、2位の三浦知良(アトレチコ鈴鹿)を抜くだけではなく、1位のジーコが持つJ1年長得点記録(41歳3カ月12日)を更新する可能性も出てきた。
前編にも記したとおり、中島が目指してきたFW像は、得点に固執するというよりは「なんでもできるFW」だが、彼は今、この数字に何を思うのか。
「ずっと気にしてなかったし、J1の年長得点記録のことも自分が取るまでまったく知らなかったんです。なのに去年、ゴールを決めてから結構、周りに言われることもあって、気にするようになりました(笑)。なので今は、上位にいる方たちを抜くのは恐れ多いと思いつつも、サッカーをやめるまでには取りたいって思っています。
ただ、それが自分のなかで一番上にくることはありません。まずは町田のために戦う、自分の役割を全うするということが第一で、そこにゴールもついてきたらいいなと思っています」
「やめるまでには」というワードを耳にして、この取材中、ずっと尋ねるべきか悩んでいた質問をぶつけてみる。「今を生きる」ことの連続で23年目のプロキャリアにたどり着いた中島が、いつの日か訪れる"引退"を考えることはあるのか、だ。
「川崎戦でゴールを決めた時に、『ああ、やっぱりサッカーってやめられねーな!』って思ったんです。あんなアドレナリンは、他の職業では絶対に出ないはずだから。
でもさすがに近年は、歳の近い仲間がスタジアムで、引退セレモニーをやっているのを見ると、『俺も、そろそろなのかな』と寂しい気持ちになることは増えました。
だから、自分はどうなんだと考えることはない。同い歳でも現役で頑張っている選手はいるし、今はまだ若い選手に混ざって練習していても、『俺のほうがやれる!』って思っちゃうし、なんなら『俺のほうがいいだろ!』くらいの気持ちでいるから。そう思えている限りは、きっとその日を想像することなくこのまま進んでいくんだと思います」
自分の考えを確認するように話をしながら、「でも、いつか決める時があるとしたら」と言葉が続く。
「『こんな練習、もうついていけねぇわ! もう無理だ!』って思う日が来たら、やめると思います。あとは、プロである以上、やっぱり"必要とされる"ことがなくなれば、それはやめ時だとも思う。それまでは......求め続けられる限りは、大好きなサッカーを思いっきりやっていたい。
そのためにも今日を......いや、今日の練習は終わったから(笑)、また明日の練習をしっかりやるだけかなと。だって、さっきも言いましたけど、こうしてキャリアを振り返っても、やっぱり未来はわからないから。鹿島にいた時も、仙台や山形にいた時も、町田に加入した時も、こんなキャリアは想像していなかったし、こんなにいいことがたくさん起きるなんて思っても見なかった。
でも、起きちゃうから。だからこそ、今を生きるってすごく大事なんだなって、あらめて......まさに今、この取材を受けながらも感じさせてもらっています。
その言葉を聞きながら、この日のトレーニングでの姿を思い返して愚問を反省しつつ、次なる質問が頭に浮かぶ。40歳を超えてもなお、疲れ知らずの強靭なフィジカルの源がどこにあるのか、ということだ。
それに対し、中島はひとつ目に「まずは両親に感謝」を挙げ、ふたつ目に「結婚してからずっと奥さんが栄養を考えて食事を作ってくれているので、奥さんと家族に感謝」と続ける。そして、3つ目には「やっぱり100%で練習をやること」だと言い、最後は少し表情を緩めた。
「バランスよく食事を摂ることは心がけていますけど、ストレスを溜めたり、我慢のしすぎはよくないと思っているので、たま~に、好きなものを食べます。僕、実は甘いものが好きなので、休みの日は自分を甘やかします(笑)。昨日もオフだったので、大好きなシュークリームを食べちゃって。だからその分、今日は『動かなきゃ!』って思っていたから、練習での動きがよかったのかもしれない」
自分を甘やかしたと言っても、食べたシュークリームは、たったのひとつ。そこに罪悪感を覚えるような"今"をたくさん積み重ねて、中島裕希は今日も今を生きている。
(おわり)
中島裕希(なかしま・ゆうき)
1984年6月16日生まれ。富山県出身。富山第一高卒業後、2003年に鹿島アントラーズに入団。「常勝軍団」のなかでもまれて、2006年にベガルタ仙台へ期限付き移籍。2008年に完全移籍する。その後、2012年にモンテディオ山形に期限付きで移籍し、翌年完全移籍。2015シーズン終了後、契約満了となるが、トライアウトを経て2016年にFC町田ゼルビアへ加入した。身体能力に優れた万能FW。