連載第56回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
日本人選手の海外移籍が活発化して数年。
【ビッグクラブへの直接移籍は画期的】
川崎フロンターレのDF高井幸大がイングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーに移籍すると報じられている。
まだ20歳という若さだが、192センチの高さとスピードを兼ね備え、テクニックにも優れ、相手FWとの駆け引きもうまい。そして、ドリブルで持ち上がって攻撃にも貢献できるセンターバック......。
欧州移籍の話が出ても当然。いや、むしろ「なぜ今までJリーグでプレーしていたんだ?」とさえ思える選手だ。
今回の移籍話。Jクラブから欧州のビッグクラブに直接移籍するところが画期的だ。
たとえば、同じプレミアリーグのアーセナル所属のDF冨安健洋は2018年1月にベルギーのシント・トロイデンに移籍し、そこからセリエAのボローニャを経てアーセナルにステップアップした。
リバプールの遠藤航もシント・トロイデンからドイツ・ブンデスリーガのシュトゥットガルトに移籍してブレークした。
三笘薫は川崎から直接ブライトンに入団したが、労働許可証が得られなかったので、初年度はベルギーのユニオン・サンジロワーズでプレーした。
いきなりレアル・マドリードと契約を交わした久保建英は、バルセロナのカンテラ育ちだから例外中の例外だ。
つまり、多くの日本人選手はベルギーやオランダあるいはブンデスリーガ2部の小さなクラブを経由してビッグクラブに羽ばたいているのだ。
その結果、ビッグクラブに高額で移籍させることでベルギーなどのクラブが儲かるばかりで、Jリーグクラブが受け取る移籍金は十分なものではなかった。
翻(ひるがえ)って、三笘を直接ブライトンに移籍させた川崎はJリーグ史上最高の300万ユーロ(当時約3億9000万円)を受け取っている。
【Jクラブは移籍金で規模拡大を図るのもひとつ】
高井のトッテナム移籍が成功すれば、Jリーグから直接ビッグクラブに移籍する例は増えるだろう。すでに三笘などが成功している川崎の場合、もし高井も成功すれば、クラブのブランド価値はさらに上がり、将来、大関友翔などをビッグクラブに移籍させる場合に再び巨額の移籍金を手にできるかもしれない。
移籍金は選手を育成したクラブにとって当然の報酬だ。
川崎はACLE準優勝で、日本円で9億5000万円ほどの賞金を受け取ることになった。また、FIFAクラブW杯に出場した浦和レッズは、3戦全敗だったにも関わらず、約14億円の賞金を獲得したと報じられている。こうした賞金はいわば"あぶく銭"だが、優秀な選手を育てたクラブが得る移籍金はクラブにとっての当然の報酬と言うことができる。
最近のJリーグの競技力は欧州の中堅レベルのリーグと肩を並べているが、クラブW杯でも示されたように5大リーグには到底及ばない。この差を埋めるためにはリーグやクラブの財政規模を大きくするしかない。巨額の移籍金を得ることも、そのための有力な方法だろう。
かつて、欧州クラブへの移籍は、たとえば中田英寿のようなJリーグや日本代表で傑出した活躍をした選手だけに与えられる特権のようなものだった。
これからは、ビッグクラブへの直接移籍を増やしていくべき段階に達している。
日本人選手の海外移籍の様相も、ずいぶんと変わってきたものだ......。
【海外移籍最初の例】
海外移籍の最初の例となったのは、1977年の奥寺康彦のケルン(西ドイツ=当時)入団だった。
この年の夏、日本代表は恒例の欧州遠征を実施。アマチュアチームなどと練習試合を行なうのと並行して、二宮寛監督は代表選手を数人ずつ分散させてブンデスリーガのクラブのシーズン前の合宿に参加させた。そして、ケルンの合宿には奥寺のほか、西野朗、金田喜稔を参加させたのだが、同クラブのヘネス・バイスバイラー監督は奥寺に目をつけた。
ケルンは、ちょうど俊足ウィンガーを探していたのだ。
神奈川県の相模工業大学附属高校(現、湘南工科大学附属高校)から古河電工に入団した奥寺は、1976年にブラジルのパルメイラスに短期留学を経て急成長。当時の日本サッカーリーグ(JSL)では、奥寺はただ縦に走るだけでDFラインを突破できるようなパワーとスピードを身につけていた。
奥寺はケルンからのオファーに、いったんは断りを入れる。海外移籍など前例がないことだったのだから、不安に思うのは当然である。しかし、バイスバイラー監督から再び入団を要請され、二宮監督や日本サッカー協会からのサポートもあったため、ついに渡独に踏みきった。

メキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、日本代表は低迷期に入り、五輪でもW杯でもアジア予選を突破できず、JSL人気も低下していた。欧州のプロなど遠い世界のように感じられていたのだ。
だからこそ、奥寺本人も最初はプロ入りに躊躇したのである。
ケルン入団によって、奥寺は日本代表から外れることになった。奥寺を代表活動に呼ぶことも検討はされたらしいが、「不可能」と結論づけられた。
今のように、国際マッチウィークのようなものが制定されていなかったので、アジア大陸内の大会は欧州とはまったく別の日程で開催されていたからだ。
また、現在と違って日本代表は長期合宿を繰り返しながら強化を行なっていた。そもそも、奥寺がバイスバイラー監督の目に留まったのは日本代表の欧州合宿があったから。代表は毎年、1カ月以上の欧州遠征を行なっていたのだ。今のように「集合して3日後には試合」というやり方など、日本では不可能だと思われていた。
奥寺が抜けるということは、ちょうど釜本邦茂の引退と時期が重なっていたため、日本代表にとっては大きな痛手だったが、二宮監督は日本代表をすぐに強化することは難しいので、将来への布石が大切だと考えていた。
当時、海外組の代表招集が難しいと思われていたのは、日本だけではない。たとえば、1978年の地元開催のW杯を前に、アルゼンチンの軍事政権は選手の海外移籍を禁止した。代表強化のためである。実際、アルゼンチン代表としてW杯に出場した国外組はスペインのバレンシア所属のマリオ・ケンペスだけだった。
【西ドイツで9シーズン活躍】
さて、ケルンに入団した奥寺は当初は周囲の信頼を得られなかったようだが、次第に得点を決めるようになり、1979年にはチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)準決勝のノッティンガム・フォレスト戦で同点ゴールを決める大活躍をした。
当初、ケルンは奥寺とウィンガーとして契約した。しかし、その後、1981年にヘルタ・ベルリンに移籍した奥寺はサイドバックとしても起用されるようになり、これを見たブレーメンの名将オットー・レーハーゲル監督に評価されてブレーメンに移籍。その戦術理解能力が高く評価され、「東洋のコンピューター」と称された。
西ドイツで9シーズンにわたって活躍した奥寺は、1986年に契約延長のオファーを断って帰国。渡独の際の約束どおり、古巣の古河電工に復帰。左サイドバックとして古河電工のアジアクラブ選手権優勝に大きく貢献した。
また、日本代表にも復帰してソウル五輪予選に挑んだが、最終的に中国に敗れて20年ぶりの五輪出場はならなかった。
ケルン入団の経緯やその後の日本代表との関係など、現在の日本人選手の欧州移籍とはすべてが異なっていることがおわかりだろう。
ちなみに、1968年のメキシコ五輪後には日本が生んだ不世出のストライカー釜本邦茂にも海外クラブからオファーが届いていた。
釜本が、翌1969年に肝炎に侵されたこともあって海外移籍は実現しなかったが、もし彼が欧州クラブに移籍していたら、たとえば現在で言えばロベルト・レバンドフスキ(バルセロナ)のような世界的なストライカーとして評価されることとなっていただろう。
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