世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第20回】クリスティアン・ヴィエリ(イタリア)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。

世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第20回は、1990年代後半にヨーロッパ最強リーグと称されたイタリア・セリエAで、飛びきりの存在感を示した大型ストライカーを紹介したい。クリスティアン・ヴィエリだ。「重戦車」の愛称が実にぴったりな、唯一無二のプレースタイルは誰も忘れることはない。

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クリスティアン・ヴィエリの全盛期はまさに無双 相手DFを圧倒...の画像はこちら >>
 問答無用のパワーファイターだった。

 フェイクを用いず、真正面から相手DFに挑む。ラグビーのFWを連想させる頑丈な体型は、五分と思われたどつき合いでも圧勝する。エルボー、キッキングはケンカ上等の覚悟で跳ね返す。重厚感や存在感など、その威風堂々たる佇(たたず)まいは、まさに「真正9番」だった。

 クリスティアン・ヴィエリである。

 プロキャリアは波乱万丈だ。トリノに始まり、ピサ、ラベンナ、ベネツィア、アタランタ、ユベントス、アトレティコ・マドリード、ラツィオ、インテル、ミラン、モナコ、サンプドリア、アタランタ、フィオレンティーナ、アタランタ......。

17年で14回も移籍している。

 寡黙で気難しいとされた本人の性格が災いしたのか、エージェントの交渉術に問題があったのか。いずれにせよ、短いサイクルで移籍を繰り返す選手は信用度に欠ける。

 それでも、ヴィエリはいくつかのクラブで強烈なインパクトを残し、カルチョ・イタリアーノ史上に残るFWのひとりだ。

 その名が日本にも知れ渡ったのは1995-96シーズンだろう。21試合・9ゴールと平均的な数字に終わったものの、パワフルなドリブル突破からシュートを決めたかと思えば、絶妙のボールコントロールからテクニカルな一撃をゴールネットに突き刺す。打点の高いヘディングも驚異的だった。「イタリア代表の明日を担う逸材」と各方面から高く評価された。

【ロナウドとの2トップは強烈】

 翌シーズンはユベントスに移籍。アレッサンドロ・デル・ピエロと息の合ったプレーを見せた。当時のヴィエリは23歳。長きにわたりイタリアの名門を支えるかに思われたが、1シーズンであっさりとアトレティコ・マドリードに去っていった。

 スペインに行っても、ヴィエリはまだ落ち着かない。

24試合・24ゴールの大活躍でラ・リーガ得点王を獲得したにもかかわらず、「なんて甘っちょろいリーグなんだ」と批判。1998-99シーズンはラツィオに新天地を求め、さらに1999-2000シーズンはインテルに移籍した。

 望まれるチームでプレーすることがプロの幸せだとしても、ヴィエリの移籍ペースは尋常ではない。もう少しだけ落ち着いていれば、より高い評価を得られたのではないだろうか。

 愛情をもって選手に接するマッシモ・モラッティ会長(当時)に気を許したのか、ヴィエリはインテルで6シーズンを過ごしている。しかも全シーズン公式戦でふたケタゴール以上を記録し、190試合・123ゴール。リーグ得点王に輝いた2002-03シーズンは23試合・24ゴールという出場試合数を得点が上回る離れ業(わざ)までやってのけている。

 特に「フェノーメノ(超常現象)」とまで言われたロナウドとの2トップは強烈だった。ともに小細工を弄(ろう)せず、パワーとスピードだけで立ち向かった。

 2000年代初期のカルチョ・イタリアーノは、カテナチオ(堅守速攻の守備戦術)の名残がまだあった。華麗なるパサーよりもハードワーカーが重宝される時代だ。ストライカーは心地がよくない。

 だが、ヴィエリとロナウドは独力で、もしくはふたりだけの連係で立ち向かった。ふたりがコンビを組んだ期間は3シーズン。ロナウドのケガの影響がなければ、「スクデットはインテルが勝ち取った」と指摘するメディアは今でも少なくない。それほどヴィエリとロナウドの2トップは強力だったのだ。

【この男を前線に残しておけば......】

 2001-02シーズン終了後、ロナウドがレアル・マドリードに去ったため、破壊力抜群のコラボレーションは終焉を迎えた。そしてヨーロッパ全土を騒がせたカルチョボリ(審判買収の八百長事件)により、カルチョ・イタリアーノの信頼も地に堕ちた。

 そしてヴィエリ本人は、度重なる負傷によりピッチから遠ざかっていく。2004-05シーズンのリーグ戦13ゴールを最後に、ふたケタゴールは記録していない。2005-06シーズンに所属したミランでは、アンドリー・シェフチェンコ、アルベルト・ジラルディーノ、フィリッポ・インザーギとのポジション争いに勝てず、わずか半年でモナコに移籍した。

 2009年夏、ブラックバーン・ローヴァーズ(イングランド)の練習に参加したものの、シーズンの開幕を待たずにイタリアへ帰国。同年10月、キャリアにピリオドを打っている。

 インテルを去ったあと、コンディションが急激に落ちていった。回復に努めても、筋肉系の故障がついてまわった。

フットボールに対する情熱も消え失せたように映った。

 しかし、全盛期のヴィエリはまさに無双。この男を前線に残してさえおけば、カウンターが成立する。レッド、イエロー覚悟で背後からつかみにいったDFが引きずられる。

 強くて、速くて、賢く、巧い......。ワールドカップやチャンピオンズリーグなどのタイトルとは無縁だったものの、ヴィエリが世界最高級のストライカーだったことに異論を挟む余地はない。

 ヴィエリが血と汗を注いだインテルは今、復活の狼煙をあげている。直近3シーズンでチャンピオンズリーグ決勝に2度進出。ヨーロッパの頂点が手の届くところにまで近づいてきた。

「パリ・サンジェルマンやレアル・マドリードのような経済力を持たずしての結果だ。実に誇らしい。なかでもラウタロ・マルティネスだ。

おそらく世界でもトップ5に入るFWであり、チームの模範でもある」

『DAZN』のインタビューに応えたヴィエリの口もとが、ほんの少しだけ綻(ほころ)んでいた。

【愛する古巣インテルへの思い】

 また、近代フットボールに関しても理解を示している。

「かつては、点が取れてアシストも上手なFWが求められていた。まぁ、今も昔も重要な要素だろう。ただ、現在は技術やゴール前のセンスだけではなく、周囲との連係、高度な戦術理解も兼ね備えていなくてはならない。フットボールは変わり、トータルにグレードアップしている」

 自らの成功体験に基づき、近代フットボールはアスリート色が強すぎる、と断罪する意見もわからないではない。ただ、技巧派の著しい減退は、やはり寂しい。

 だが、ヴィエリは「俺たちの時代のカルチョは遅れていた」とも語り、フットボールの今に携わる人々に敬意を表している。他人を寄せつけなかった現役当時のイメージをふまえると、「ポゼッション? ハイブリッド? しゃらくせえっ!」と一蹴するかに思われたが、意外にも丁寧な答えが返ってきた。

 個人主義者と思われたヴィエリが認める近代フットボールはさらに磨きがかかり、世界中を虜(とりこ)にするに違いない。そして愛するインテルがヨーロッパを制した時、彼はどのようなコメントを発するだろうか。

 稀代のストライカーは優しく、熱く、古巣の戴冠を心待ちにしている。

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