「トラックの女王」福士加代子は初マラソンでゴール直前に何度も...の画像はこちら >>

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.8

福士加代子さん(前編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。オリンピックの大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は、オリンピックにトラック種目で3回(2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン)、マラソンで1回(2016年リオデジャネイロ)と、日本の陸上女子選手として史上初めて4大会連続出場を果たした福士加代子さん。

 全3回のインタビュー前編は、ずっと「やらない」と言い続けていたマラソンを走ろうと思った理由、そして、困難続きだったマラソン挑戦の道のりを振り返ってもらった。

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

【走れるだろう、完走できるだろうと思ってスタートした】

「マラソンをやらなきゃと思ったのは、渋井(陽子)さん(三井住友海上)が10000mの日本記録を出していたのと、自分自身の10000mのタイムが伸び悩んでいたからです」

 福士加代子(ワコール)は、トラックではジュニア(20歳未満)の時代から日本のトップを走り続けてきた。2001年に3000m、5000m、10000mのジュニア日本記録を更新。シニアとなってからも、2002年の日本選手権で5000mと10000mでともに初優勝。それから2007年まで10000mでは6連覇を達成した。2004年のアテネ五輪にも10000mで出場するなど(26位)、トラックが主戦場だった。

 だが、「トラックの女王」は世界陸上大阪大会を目前にした2007年8月、突然、「2008年の北京五輪はマラソンで目指す」と宣言したのである。

「私は勝負に勝つというより、タイムを狙っていれば順位がついてくると思っていましたし、タイムを狙うほうが楽しいんですよ。でも、それが2007年ぐらいから出なくなって。しかも、渋井さんがマラソン選手なのに10000mの日本記録を持っていたんです。私はトラックの選手なのにマラソンの選手に負けている。

 だから、私もそっち(マラソン)に行かないとダメだなと思ったんですが、マラソンはずっと『やらない』と言い続けていたし、抵抗があったんです。それでもやっぱりタイムを狙いたいし、話題性もあるじゃないですか。『やれば、たぶん走れるやろ』という軽いノリもあってマラソンを走ることを決めたんです」

 ターゲットレースは2008年1月27日の大阪国際女子マラソンに決まった。

 マラソンの練習に入ると、長い距離を踏む練習が増えてくる。当初、福士は20km走を数回やればいいのではと思っていた。だが、ワコールの永山忠幸監督からは「(30km、40kmといった長い距離を)もっと走らないとダメだ」と叱責され、「やれんわ、そんなの」と反発。そうした永山監督との"バトル"は連日続き、ついには「やめちまえ」とまで言われた。

「でも、出ると言った以上、やめられないじゃないですか。世間の目があるので(苦笑)。練習をやりきれなかったですし、ご飯も(十分に)食べれず、本当にテキトーにやっていました。最長で30kmしか走っていなかったので、スタートに立った時の自信はなかったです。それでも、まぁ、走れるだろう、完走できるだろうと思ってスタートしました。

完全にマラソンをなめてましたね」

【マラソンでオリンピック出場を目指すも2度続けて失敗】

 スタートから30km過ぎまでは快走し、「さすが福士」とファンや関係者をうならせた。だが、35km付近でスローダウンすると、みるみるうちにスピードが落ち、ジョグ状態になった。そして、ゴールの長居陸上競技場を目前に転倒。すぐに起き上がって走り続けたが、競技場へ入ってからも3度転倒。スタンドから悲鳴が起こるなか、2時間40分54秒でゴールした。初マラソンは、かくもほろ苦いレースになった。

「もうクタクタボロボロでした(苦笑)。レースが終わった時は『よくがんばったね』という声が多かったんですけど、翌日には今までの私のトラックの記録がなかったかのように、『あいつはダメだ』って叩かれたんです。

 しかも、私だけではなく、コーチやチーム全体もダメだって否定されて。そんなに悪いことをしたわけじゃないのに全否定されて、もうめちゃくちゃ腹が立ちました。このままじゃ終われん。ちゃんと練習をしてマラソンに出てやると思いました」

 それでもレース後、北京五輪のマラソン代表の道が閉ざされると、マラソンの練習は休止し、本職のトラックでの五輪切符獲得を目指した。マラソンのダメージはあったものの、もともとトラックの練習をメインに行なっていたこともあり、移行は比較的スムーズだった。

 そして、無事に2大会連続でのオリンピック出場を決めたが、本大会では5000mは予選落ち、10000mは11位に終わった。この結果から今後、トラックか、マラソンか、どちらで勝負するのか、あらためて真剣に考え始めた。

 福士がマラソンのレースに戻ってきたのは、2011年10月9日のシカゴマラソンだった。デビュー戦の大阪国際女子から3年9カ月ぶりのレースになった。

「時間が空いたのは、初マラソンの経験で『もう、ちょっといいや』って思ったのと、北京五輪からロンドン五輪まで4年間あるので、オリンピックの代表選考レースの近くになってからやろうと思ったからです。しかも、シカゴは海外なので、日本で走る時のように(メディアや世間に)あれこれ言われることもないのでいいんじゃない?って思って走ったら、(その時の)自己ベスト(2時間24分38秒)が出たんです」

 自信を取り戻した福士は、翌2012年1月29日、ロンドン五輪の選考レースになった大阪国際女子マラソンに出場した。だが、20km過ぎまで優勝した重友梨佐(天満屋)とトップを競り合うが、26kmで落ち始めた。結局、8位に終わり、マラソン代表の座を射止めることができなかった。

「この時は、練習はできていたんですけど、ご飯を食べなかったんです。最後の調整でエネルギーを摂らないといけないのに、体が重いのがちょっと嫌だなと感じて、食べる量を落としてしまった。仕上げのところでの詰めが甘く、スタミナ切れというオチになりました。練習ができてもそういうことが起こるので、だからマラソンってムカつくんですよ(苦笑)」

【手ごたえをつかんだ世界陸上での銅メダル】

 前回の北京五輪同様、ロンドン五輪もトラックでの出場に目標を切り替え、日本選手権の10000mで標準記録を突破し(2位)、5000mも2位となり、3大会連続での五輪出場を決めた。本大会では10000mは10位、5000mは予選突破できずに終わった。

「北京五輪の時にスピード不足を感じて、トラックはもう無理かもしれないと思ったんですが、ここでダメ押しでしたね。もうトラックでは世界で戦えない。覚悟を決めてマラソンをやらないといけないと思って練習に取り組んだんですけど、やらされている感が満載で納得できないし、『いいね』って言われても、何がいいのかさっぱりわからなかったんです。

 しかも、与えられた練習メニューを消化できない。30km走はまだできるんですけど、40km走はきつすぎて。あと、5kmを6本とかやるんですけど、やれる人は8本とか9本やるんですよ。ダメージをくらうし、練習時間が長くて、『いつ終わるんだよ、これ』って、いつも思っていました。

 マラソンはこういう練習を3カ月も積み重ねていくので、私には向いていない。しかも、ただ練習するだけじゃなく、栄養も(計算して)摂らないといけないんで、マラソンはほんと面倒くさかったですね」

 過去の練習データは監督が記録しているが、ほとんど見なかった。基本的に100%できた練習が少ないので、見ていると腹が立つからだ。マラソンの練習に正解を見出せない福士は、野口みずき(シスメックス)や渋井陽子、小﨑まり(ノーリツ)らに「何をすればいい?」と聞いてまわった。

 野口は「2、3時間のロングジョグがいいよ」と教えてくれたが、「ジョグでそんなに走るのか」と抵抗感を覚えた。

小﨑には「ゆっくりジョグがいいよ」と言われ、始めてみたが、最初はゆっくり走ることができなかった。

「マラソンの練習については、最後までこれだというのがわからなかったですね。マラソン自体、楽しむというのもなかったです。楽しみはレース会場に行って知り合いに会うことぐらい。(自身3度目のマラソンとなった)2013年の大阪国際女子も、私ひとりじゃなくて、渋井さんや小﨑さんが出るのですごく楽しみにしていたし、ふたりには給水で助けてもらいました。

 この時、2位(のちに繰り上げ優勝)になるんですが、みんなに助けてもらわないとマラソンというモンスターには勝てなかったです」

 その2013年の大阪国際女子マラソンには、これまでの失速の経験を生かして臨んだ。レース3日前から白米をお茶碗2杯と、さらにパスタも餅も食べた。緊張があったせいか、あまり味を感じなくなり、お腹も空かないので、食事を詰めこむのが一番しんどかった。

「それなりに練習をして、栄養も摂り、いろいろやった感があったので、ちょっとはいけるかもと思っていました。でも、35kmぐらいからペースが落ちてきて、最後の最後(残り900m)で(1位でゴールしたウクライナの)ガメラ(タチアナ・ガメラシュミルコ)さんに抜かれてしまって。『なんだ、この人! あぁ、神様なんていねーよな』って思いましたね」

 それでも福士は総合2位、日本人トップ、自己記録を17秒上回る2時間24分21秒でフィニッシュした。そして、同年8月の世界陸上モスクワ大会にマラソンで出場すると、積極的な走りで銅メダルを獲得し、世界と戦える自信がついた。

同時にオリンピックにマラソンで出場するという意欲が一段と高まった。

【「やっと獲ったよ、1等賞。リオ決定だべ」】

 その後も地道にマラソン練習を続け、迎えた2016年1月、リオデジャネイロ五輪の選考レースのひとつである大阪国際女子マラソンに出場。「私もヒロインになりたい」と優勝への意欲を語り、臨んだレースは中盤から独走態勢になり、派遣設定記録(2時間22分30秒)を突破する2時間22分17秒で優勝した。

「この時は、練習はできていたけど、最後のほうは『もう、こんなんやめてやる』と何回も監督に言っていました。タイムは2時間22分を目指していたわけではなく、20分を切りたいと思っていたんです。でも、それは最後まで見えなかったですね。30kmとか35km過ぎに落ちるレースしかしたことがなかったので、そういうところも払拭したいと思って、ずっと走り込みとかしていました。それが報われての優勝はうれしかったです」

 レース後、「やっと獲ったよ、1等賞。リオ決定だべ」と喜びを爆発させた。このシーンは、テレビのニュースで多く取り上げられた。福士は、よく方言を使っていたが、それが自らの言葉を際立たせ、多くの人に受け入れられ、メディアの見出しにもなった。それは意図的に行なっていたことだったのだろうか。

「まぁ、素でしたけど、短い時間のなかでしゃべるのが得意でしたし、その場の空気を読んで一瞬で言葉を変えられるんです。大阪国際女子マラソンで『これで決まりだべ』と言った時も、普通に言ったらダメだと思ったので直前に変えたんです」

 自分の言葉がより多くの人に伝わるにはどうしたらいいのか。それを考えて発信できるアスリートは、稀有な存在であり、福士はそのひとりだった。

 大阪国際女子マラソンで優勝し、福士のリオ五輪出場は決定的だと誰もが思った。だが、日本陸連はすぐに内定を出さず、選手選考をめぐって紛糾することになる。

(つづく。文中敬称略)

>>>中編「4度目の五輪で初めてマラソンに出場した福士加代子『メダルを獲りたいと有言実行できる人はすごいですよ』」を読む

福士加代子(ふくし・かよこ)/1982年生まれ、青森県出身。五所川原工業高校から、2000年にワコールへ入社。2002年に3000mと5000mで日本記録を更新。10000mでも日本選手権を6連覇し、「トラックの女王」と呼ばれた。オリンピックには2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンとトラック種目で3大会連続出場。マラソンは2008年大阪国際女子マラソンで初挑戦すると、2013年世界陸上モスクワ大会で銅メダルを獲得。2016年リオデジャネイロ五輪にはマラソンで出場し、日本の女子陸上選手で史上初めてとなる五輪4大会連続出場を果たした。2022年に現役引退。現在はワコール女子陸上競技部のアドバイザーを務めるほか、駅伝開催、メディア出演、市民マラソンのゲストなど普及活動にも携わる。マラソン自己ベスト記録は2時間22分17秒(2016年大阪国際女子)。

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