プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(19)

(連載18:髙田延彦vs武藤敬司の熱狂、ヒクソン戦の放送にまつわる裏話を元東スポ記者・柴田惣一が明かした>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第19回は、いまだに日本でも人気が高く、トークショーに引っ張りだこのスタン・ハンセンについて振り返る。

【プロレス連載】スタン・ハンセンの引き抜き合戦を振り返る 伝...の画像はこちら >>

【"引き抜き合戦"で新日本から全日本へ】

――柴田さんから見て、外国人レスラーで1番人気のレスラーといえば?

柴田:やはり「ブレーキの壊れたダンプカー」「不沈艦」のスタン・ハンセンでしょうね。日本プロレス史を彩った外国人レスラーはたくさんいます。ザ・デストロイヤーやアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・ファンクス、ミル・マスカラス、ハルク・ホーガン......世代によってファンが熱くなる選手はさまざまでしょうが、老若男女、広い世代で人気や知名度が高いのはハンセンだと僕は思います。

――ハンセンは、柴田さんが東スポに入社した1982年は全日本プロレスに参戦していますね。

柴田:そうですね。ファンだった時代は、新日本プロレスでアントニオ猪木さんたちと抗争していたハンセンの勇姿に胸を躍らせていたけど、全日本に移籍した。ビックリしましたよ。1981年12月11日、新日本プロレス「第2回MSGタッグ・リーグ戦」最終戦に出場し、翌12日の全日本プロレス「'81世界最強タッグ決定リーグ戦」横須賀市総合体育会館大会に姿を現したんですよね。

――ただ、この時にハンセンは「旧友のブルーザー・ブロディの激励に訪れただけ」と答えています。

柴田:記者を欺いたんでしょう。運命が動いたのは一夜明けた12月13日の蔵前国技館。

全日本の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦で、ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本に登場。テリー・ファンクにウエスタン・ラリアートを放ったのは衝撃的でした。 日本テレビの「ハンセンですか?」「ハンセンですよ!」とエキサイトした実況が耳から離れません。

――1981年5月にブッチャーが新日本に引き抜かれ、全日本が"報復"でハンセンを引き抜いたと言われています。

柴田:1982年2月4日、東京体育館でジャイアント馬場さんの保持するPWF世界ヘビー級王座にハンセンが挑戦。当時44歳の馬場にとって、圧倒的なパワーを誇るハンセンは難敵そのもの。ベルトは奪われてしまう、というのが大方の見方でしたね。でも試合は、予想を裏切る激しい戦いで、馬場が底力を発揮した。この年のプロレス大賞で年間最高試合を獲得しましたね。

――全日本が勢いを盛り返したんですね。

柴田:その数日後に、新日本は全日本に"引き抜き合戦"の停戦を申し入れています。馬場さんは、その戦いにも勝利したんですね。

【先輩・後輩の仲だったブロディとハンセン】

――ハンセンの印象はどうでしたか?

柴田:もともと教師だったから、リング外ではナイスガイ。でもリング上では、まさにブレーキの壊れたダンプカーでしたね。

――近眼で、相手レスラーの顔をハッキリ認識していなかったとも聞きます。

柴田:入場の際、ハンセンが振るブルロープが当たって観客が激怒したことがあって。試合後、その観客にハンセンが謝りに行ったら、その人柄に魅了されて怒りが収まった、という逸話もあるくらいリング外では温和で優しかった。

 ただ、今では厳禁でしょうけど、女性ファンにはボディタッチすることもあったね。いたずらっぽくポンと軽くタッチする感じ。女性ファンも、怒るというより「しょうがないなぁ」という感じで笑っていました。それがハンセンの人徳なのかな。

――少年時代は、ブロディとの「超獣コンビ」が怖かったです。ブロディも鎖を振り回しながら入場するので、恐怖で近づけなかった。ただ、そんな2人が宿泊先のホテルのロビーで談笑している姿を見る機会があって、印象が変わりました。

柴田:そうそう、あの2人は本当に仲よしなんです。

大学の先輩・後輩の仲ですし。年齢はブロディが3歳上で、デビューはハンセンのほうが約1年早い1973年1月でした。

 ハンセンはプロフットボールチームに入団したけど、解雇されて中学校で教鞭をとった。あまり給料が良くなかったんですが、そのあと大学のフットボール部の先輩だったテリー・ファンクから声がかかってプロレスの門を叩きましたね。

 ブロディはスポーツ新聞の記者だったけど、こちらも給料が安くて、酒場での用心棒も掛け持ちしていた。そんな時に"鉄の爪"フリッツ・フォン・エリックから声がかかり1974年4月にデビューします。

 当時のファンクス道場には、ジャンボ鶴田さんや、WWF王者になったボブ・バックランドなど逸材が集まっていました。だからジャンボさんとハンセンは、日本的に言うと「同じ釜の飯を食った仲」。アメリカ流なら「同じハンバーガーを食った仲」かな(笑)。青春というか、やっぱり相通じるものがあったと思いますよ。

【伝説の"首折り事件"で有名レスラーに】

――初来日はいつだったでしょうか。

柴田:1975年9月の全日本でしたね。

最初、馬場さんは「パワーだけのファイター」といった言葉を残しましたが、あまり印象がよくなかったみたいです。しかし1976年4月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、当時のWWWF(現WWE)ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を折って一躍有名になりましたね。

――"人間発電所"サンマルチノとのタイトル戦での「首折り事件」ですね。

柴田:ウエスタン・ラリアートでそうなった、とも広まったんですが......真相は、ハンセンのボディスラムが危険な角度で落ちて、サンマルチノが思わぬダメージを負ってしまったんです。試合中に重傷を負いながらサンマルチノは戦い続けましたが、額の血を確認してレフェリーが試合を止めました。

――ハンセンとサンマルチノの再戦は行なわれたのでしょうか?

柴田:2カ月後、6月25日にサンマルチノの首が回復しないまま、再戦が行なわれました。結果はサンマルチノのリングアウト勝ちです。

――なぜ、ケガが回復してないのに試合を行なったのですか?

柴田:1976年6月26日は、日本武道館で猪木vsモハメド・アリ戦が開催され、アメリカでも生中継されたんですよ。それで、WWWFの創業者でプロモーターだったビンス・マクマホン・シニアがチケットの売れ行きを心配し、サンマルチノに出場を懇願したらしいですね。

 余談ですけど、サンマルチノは1981年10月4日に、アメリカ・ニュージャージーで引退試合をしています。しかしその後の10月9日、全日本の創立10周年記念シリーズに来日。蔵前国技館で馬場さんと組んで、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と激突しました。

これが、事実上の引退試合です。サンマルチノと馬場さんの間には、それほど深い信頼関係がありましたからね。

――ハンセンはサンマルチノとの試合で有名になったあと、1977年1月に新日本に参戦しています。

柴田:サンマルチノ戦のあと、ハンセンのことをよく思っていなかったビンス・マクマホン・シニアから「WWWFでの契約延長」か「新日本プロレス行き」を提案され、新日本を選んだわけです。この時、ハンセンがサンマルチノに相談したら、日本行きを薦められたそうですよ。

 ただ、サンマルチノは「猪木のことはわからないが、馬場が言ったことは100パーセント信用できる」とアドバイスしたようです。この言葉もあったから、ハンセンは1981年に全日本に移籍し、その後は全日本ナンバーワン外国人レスラーとして活躍したのかもしれませんね。

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。

テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

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