ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第6回:倉田秋(ガンバ大阪)/前編
「(現役の)終わりが近づいているのを自覚しているからかな。この試合で結果を残せなかったらキャリアが終わる、とか。起用に応えられなかったら次はない、とか。監督のラージリストから一度でも漏れたら、『二度と公式戦のピッチに立てないんじゃないか』って危機感がエグいくらいあって、それが自分を走らせているのかも。
といっても、プレーが始まったらそんなことはいっさい忘れていますけど。とにかく勝ちたい、ゴールを取りたい、ホンマにそれだけ。だって、あのゴールを決めた瞬間の高揚感とか、アドレナリンの爆発は、プロサッカー選手にしか味わえないものやから。それを少しでも長く、多く、味わい続けるには絶対に結果がいる。そのことは毎日、毎分、毎秒、自分に突きつけています」
見事なまでに鍛え抜かれた肉体もその危機感の表われ。体も心も、最高潮。そんな状態を保ち続けることができているから、倉田秋は今もガンバ大阪の『10番』を背負っている。
◆ ◆ ◆
「このままだとサッカー選手ではいられなくなる」
本気でそう思ったのは、2007年にガンバユースからトップチームに昇格して2年がすぎた頃だったという。アカデミー時代からコンスタントに世代別の日本代表に選出されるなど、圧倒的な技術と才能を評価されて飛び込んだプロの世界だったが、「鼻をへし折られるような感覚」が続いていた。
「正直、練習では思うようにプレーできることも多かったんです。当時はボランチでしたけど、同じポジションのヤットさん(遠藤保仁)、ミョウさん(明神智和)、ハシさん(橋本英郎)らのなかに入っても......僕自身は『通用せえへん』と感じたこともなかったし、むしろ『やれる』とすら思っていました。
でも、いざ試合に出て、練習でやれていたプレーができたのかといえば、まったくでした。それに対して、ヤットさんたちは(試合で)練習以上のプレーをしていた。その時に初めて、自分がプロのレベルに遠く及んでいないと思い知らされました」
しかも、その物足りなさは2年をすぎても拭い去ることはできず、"変わっていかない自分"への焦りは日に日に大きくなった。
「別にうまくプレーできなくても、誰に怒られるでもないし、ミスを咎められるわけでもないんですよ。でも、ただただ『ああ、おまえはそれ、できひんねんな』っていう冷たい空気が流れる、みたいな。それにまたプレッシャーを感じて空回るという繰り返し。その自分に、常にフラストレーションを抱えてサッカーをしていました」
当時のガンバは、2005年のJ1リーグ初優勝を機に「常勝軍団」として名乗りを上げ、"タイトル"を重ねていた時代。倉田のプロ1年目にあたる2007年にはナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で、2008年にはAFCチャンピオンズリーグと天皇杯で頂点に立っている。
「少しずつ出場時間は増えてはいたけど、成長している実感を持てなくて。なのに、自分は何かを変えようと行動するわけでもなく、与えられた練習をこなすだけでした。それは、この世界では"腐っている"のと同じというか。この歳になったらわかるけど、監督やコーチに言われたことだけをやっていても、"自分のもの"にはならんと考えても、まったく足りていなかった。
その状況から半ば逃げるように、2年目の終わりにガンバを出ることも考えたけど、クラブから『この環境でも成長は求められるんじゃないか』と言われてすぐに引き下がる、みたいな。結局、そのくらいの覚悟しかなかったんやと思います。そんな自分やから3年目はほぼ試合に出られなくなり......。
その時にホンマに『このままやとサッカー選手でいられなくなる。居心地のいい場所から離れないと成長は望めない』と思い、クラブにもう一度、本気でお願いして期限付き移籍をさせてもらった。今思い返してもほんまに情けない、暗黒時代の3年間でしたけど、『あの時に二度と戻りたくない』って思えたことは、今につながる唯一の収穫でした」
その危機感を胸にガンバを離れ、J2のジェフユナイテッド千葉に期限付き移籍をしたのが2010年だ。昨今は、期限付き移籍から所属元のチームに復帰することは珍しくなくなったが、当時は暗に"期限付き移籍=片道切符"とされていた時代。
「いくつかのJ2クラブから話をいただいたなかでジェフに決めたのは、監督の江尻篤彦さんが直々に話をしてくれて、『ボランチではなく、前目で起用したい』と言ってくれたから。というのも、当時のガンバのボランチには1~2タッチでボールをさばくことを求められていたというか。それによって僕も『プロのボランチはそうじゃないとアカンのかな』って思っていたんです。
でも、ユース時代からドリブラーで、中盤からボールを持って攻め上がるプレーを得意にしていた僕には、どうもそのプレーがフィットしなくて。それもあって、直感的に江尻さんの言う『前目』は自分に合うんじゃないかと思いました」
倉田が初めてのJ2リーグを戦った2010年は、開幕ゴールで幕を開けた。「張りきりすぎて」開幕前にハムストリングに軽度の筋膜炎を患っていたため、途中出場になったが、出場からわずか5分後に初ゴールを叩き込む。その"入り"のよさは自身に拍車をかけ、同年は29試合出場8得点と、初めてシーズンを通して公式戦を戦った。
「ジェフでの一番の収穫は、今につながる"走る力"を備えられたこと。江尻さんから『走れない選手は使わない』と口酸っぱく言われていたなかで、ガンバ時代には考えられないくらいめちゃめちゃ走り込んだし、フィジカルトレーニングや練習も、バッチバチでキツかったけど、それによって走る力を備えながら"点を取る感覚"を思い出せたのはすごく大きかった。
一方、前半戦で『結果を残せる』と思えたことで、後半戦は調子に乗ってしまい、チームとしての戦術の枠を超えて、自分のやりたいプレーをやるようになった自分もいて......。そうなると、先発では使われなくて当然やのに、自分は『なんで、俺を使わんねん』みたいな(苦笑)。ホンマ、若いというか、浅はかというか。その経験を通して、プロの世界は自分がやりたいプレーだけやっていて許されるほど甘くないと痛感させられたのも、のちの自分に通じる学びになった」
そんなジェフでの1シーズンを終えて、セレッソ大阪に期限付き移籍をしたのが2011年だ。ガンバに復帰する話も持ち上がったが、「まだ確固たる自信をつかめていない」と、倉田は再び、新たな環境に身を置く決心をする。
「J1でも通用すると言いきれるほどの自信はついていなかったので、もう1年、どこか(他の)J1チームでやりたいな、と。正直、ガンバ育ちの自分がセレッソのユニフォームを着る未来がくるなんて想像もしていなかったけど、当時のセレッソにはキヨ(清武弘嗣)や乾(貴士)、キム・ボギョンら、近い世代で攻撃的な選手が多かったので。そのなかに入って攻撃をしてみたいという思いが強かった」
実際、前線を構成する選手たちと作り上げる"攻撃"において、倉田は水を得た魚のごとく躍動して見せた。前年度に続き、開幕戦で、しかもガンバ戦でゴールを挙げたことも追い風になったのかもしれない。
「もう、周りの選手がうますぎました。キヨや乾ら、ちょこちょこ動きながら足元でプレーする、自分と似たタイプの選手が多かったことにも助けられ、周りが作り出してくれる流れに乗っかっているだけで、めちゃめちゃ楽しくサッカーができたし、自分がうまくなっていくような感じもした」
また、レヴィー・クルピ監督に繰り返し求められたシュート数にこだわってプレーできたことも、ジェフ時代に備えた機動力を"怖さ"に変えることにつながった。
「クルピ監督には練習後に、必ず『今日はシュートを何本打った?』と聞かれたんです。
その手応えは数字でも示され、この年、倉田はシーズンを通して稼働しキャリア初のふた桁ゴール(10得点)を叩き出す。
ただし、だ。彼の言葉を聞きながら、ひとつの疑問が浮かぶ。先にも記したとおり、倉田が在籍していた2007年~2009年のガンバもまた"攻撃サッカー"を代名詞に、J屈指の攻撃力を誇っていたはずだ。そこで見出せなかった"攻める楽しさ"を、セレッソではなぜ見出せたのか。預かるポジションがよりゴールに近づいたこと以外に、何か理由はあるのか。
「確かに、当時のガンバも攻めまくるチームで、自由も比較的多かったとは思います。ただ、自由といえども、西野朗監督が就任してから絶対的主軸としてプレーしてきたヤットさん、ミョウさん、(山口)智さんらによって、言葉にせずとも定着したスタイルがあったというか。さっきのボランチの話じゃないけど、明確な点の取り方、勝ち方があって、そこに合わせなアカンと思いすぎていたから、窮屈さを感じていたのかも。
これは、自分のプレーに対する自信のなさも大きく影響したと思います。
事実、3年ぶりに復帰した2012年のガンバにおいて、倉田は以前とは違う存在感を放った。左サイドハーフとして、縦のコンビを組んだ同い歳の左サイドバック・藤春廣輝(現FC琉球)との連携もよく、ボランチの遠藤を含めた左サイドでの作りは繰り返し攻撃を彩り、倉田もJ1リーグで31試合7得点と結果を残した。
「セレッソ時代に対戦したチームのなかで、ガンバが一番強かったんです。ポゼッションのうまさも群を抜いていて、とにかく、回されて、走らされて、ボールを奪える気がしなかった。自分が在籍していた時に感じていた何倍も強くて、嫌なチームでした。
でも、それを体感したから、2012年に戻った時に自分のスタイルで勝負しようと思えたんやと思います。(ポジションを争う)フタさん(二川)やハシさんと同じプレーはできひんし、これだけうまい選手がそろうガンバやからこそ、僕は期限付き移籍の2年間で形になりつつあった自分のスタイルで勝負して、周りに合わせてもらおうと割りきれた。あとは、以前の自分と同じことをしたら、あの時に戻ってしまうという恐怖(笑)。
実際、そうやってプレーしていたら、ヤットさんや今ちゃん(今野泰幸/現南葛SC)ら周りの選手が合わせまくってくれて、動けばボールが出てきたので、いつも『すげぇ、すげぇ』って思いながらプレーしていました」
だが一方で、チームは? といえば、相変わらずの攻撃力は示しながらも残留争いに巻き込まれ、最終節のジュビロ磐田戦での敗戦によって、クラブ史上初のJ2降格を突きつけられてしまう。総得点ではリーグ最多の67得点を記録しながらの、前代未聞の降格劇。その最終節で倉田が決めた唯一の得点は、「キャリアで最もうれしくないゴール」として記憶に刻まれている。
「攻撃が爆発して7点、5点と、大量得点で勝つ試合もあった一方で、僅差の試合は最後の最後で勝ちきれない、みたいなことも多くて。ジュビロ戦も勝てば(降格圏を)抜け出せる可能性もあったのに、勝ちきれず、降格になってしまった。
あの時に感じた絶望感というのかな。自分の力が及ばない情けなさというか......。サッカーをしてきたなかで一番、しんどくて、悲しくて、苦しかった」
(つづく)
倉田秋(くらた・しゅう)
1988年11月26日生まれ。大阪府出身。2007年、ガンバ大阪ユースからトップチームに昇格。2010年にJ2のジェフユナイテッド千葉に期限付き移籍し、翌年はセレッソ大阪に期限付き移籍。もともと実力の高さには定評があったが、それぞれのクラブで経験を重ねて自信をつける。2012年に古巣のガンバに復帰。以降、ガンバひと筋で、チームの主力として奮闘を重ねている。