連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第4回 安藤美姫 後編
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第4回は、トリノ、バンクーバーの2大会に出場した安藤美姫の軌跡を振り返る。
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【久々の笑顔、そして初の世界女王へ】
幼い頃から憧れていた舞台に初めて立ったものの、悔しさのほうが大きかった2006年トリノ五輪。安藤美姫はその後も4回転サルコウへの挑戦を継続しながら、自身の資質の高さを見せる活躍を見せた。
振付師でもあるニコライ・モロゾフをコーチに招聘(へい)し、表現力やスピン、ステップの改良に乗り出した2006−2007シーズン。4回転は封印したが、幼い頃の指導者だった門奈裕子コーチの指導も受けてジャンプをつくり直した。
「小さい頃から自分が一番得意にしてきたジャンプ」という3回転ルッツ+3回転ループを武器とし、スケートアメリカではフリーでショートプラグラム(SP)1位の浅田真央を逆転してGPシリーズ初優勝を果たした。
それまでの自己ベストを20点強更新する結果に安藤は、「(五輪があった)昨シーズンはつらいことばかりで納得のいく演技をまったくできませんでしたが、今回は今の自分のレベルからしたら本当にいい演技ができたなとホッとする気持ちが一番。ジャンプもミスなく滑りきることができて、3回転+3回転も決まったのがうれしいです」と、久しぶりの笑顔を見せた。
その後のGPファイナルではフリーで体調を崩して5位。全日本選手権はフリー途中に右肩亜脱臼で中断し、納得しきれない結果になっていた。それでも東京開催だった2007年3月の世界選手権では、SPでキム・ヨナ(韓国)に、フリーで浅田に次ぐ2位ながらともに当時の自己ベストを更新する安定した演技で195.09点を獲得。浅田を僅差で抑えて初優勝を果たした。
【スケーターとしてどうしていけばいいか...】
しかし、ルッツやフリップの踏み切りや回転不足の判定が厳格化されていくなかで調子の波も大きくなっていった。
2007−2008年はスケートアメリカ2位も、NHK杯4位で4年連続のGPファイナル進出を逃した。
だが世界選手権ではフリー当日に左ふくらはぎを痛め、2本目の3回転サルコウで転倒したあとに棄権。安藤は、「薬を飲んでいたので筋肉が動かなかったです。3本目のジャンプに行けず、無理だと思って止めました。ケガが多いし、スケーターとしてどうしていけばいいかを(コーチと)きちんと話したい......」と無念さをにじませながら話した。
再び4回転サルコウに挑む意識を持った2008−2009年は、初戦のスケートアメリカの公式練習で4回転サルコウにトライしていたが、安藤の体調を考えたモロゾフコーチの進言で次戦の中国杯も含めて回避した。
それでもともに表彰台に上がってGPファイナルへ進出し、そのフリーでは最初に予定していた連続ジャンプをやめて4回転サルコウに挑み、回転不足ながら着氷した。その後も回転不足を連発して最下位の総合6位だったが、安藤は「しばらく4回転を入れていなかったので、絶対にやりたいという気持ちがありました。ほかにも新しいジャンプのダブルアクセル+3回転トーループを入れて満足しています」と笑顔だった。
しかしその後は4回転をまた封印。全日本選手権3位を経て臨んだ世界選手権は、合計190.38点で3位に。演技構成点はキム・ヨナに次ぐ全体2位の得点を獲得し、「自分の力を出すことに集中して終われました」と納得の表情を見せていた。
【大舞台で自己ベスト、実感した成長】
2度目の五輪シーズンとなった2009−2010年、回転不足やエッジエラーの判定が厳しくなり全体的に得点が抑えられる傾向も見えるなか、GPシリーズを2勝してGPファイナルはキムに次ぐ2位となり、バンクーバー五輪代表を内定させるシーズン前半戦とした。
トリノ五輪の時に荒川静香から「1度目の五輪は楽しかったけど、メダルを狙う今回は違う」と聞いたという安藤の2度目の五輪。2010年2月23日のSPは最終滑走で、キムが自己ベストの78.50点を出してトップに立ち、浅田が73.78点で2位につける状況での滑りだった。
安藤は、最初の3回転ルッツ+3回転ループのセカンドが回転不足になる滑り出しとなったが、その後は流れが途絶えない情熱的な演技を見せた。
「最終滑走で緊張したし、3回転+2回転ならダウングレードにならずに得点ももっと伸びたと思いますが、安全策を取らずやると決めて3回転+3回転にトライできたのでスッキリしています」
その結果は64.71点で4位発進。3位のジョアニー・ロシェット(カナダ)に6.60点差と、少し厳しめのスタートになってしまった。
「ショートのあとは落ち込んだ」と言った安藤だが、2日後のフリーはベストを尽くそうという気持ちに切り替えられていた。不安のあったジャンプは抑える構成とし、安定感のあるノーミスの滑りを見せた。フリーの得点の124.10点はシーズン自己ベストだったが、合計は188.86点の総合5位という結果で2度目の五輪を終えた。
それでも表情は穏やかだった。
「ショートのあとは自分に対して悔しかったけど、中1日あったので気持ちも整理できて、結果だけではなく、皆さんに対して感謝の気持ちをこめて演技するのが自分だなと思えたのはよかったです。4年前(のトリノ五輪)は失敗ばかりしていて自己満足だけで終わっていたと思いますが、今回は自分なりに成長した演技はできたかなと思います」
プレッシャーや不安との戦いだったトリノ五輪のあと、ケガや調子の波の大きさに苦しむ時期もあり、「自分がリンクに立っていていいのか」と悩んだこともあったという。だが、それを乗り越えたからこそ得られた心の成長を、彼女はバンクーバーの大舞台で見せてくれたのだ。
【フィギュアスケート女子新時代の立役者】
翌2010−2011年シーズンは、重荷から解放されたようなはつらつとした姿を見せた。GPシリーズで連勝すると、GPファイナルは総合5位ながらフリーでは1位になる意地を見せた。
そして、全日本選手権で3度目の優勝を果たすと、四大陸選手権は自身初の公認200点台となる201.34点で優勝。東日本大震災のために4月開催になった世界選手権は、キムをフリーで逆転して2度目の王座獲得と輝くシーズンにした。
その後の2シーズンは休養と、諸事情からの公式戦欠場というブランクを過ごしたが、2013−2014のソチ五輪シーズンに復帰。国際大会3試合のあと、3度目の五輪代表に挑んだ全日本選手権は7位に終わり、それが彼女の現役最後の試合になった。
フィギュアスケート女子の新時代を切り拓いたひとりである安藤美姫。その競技生活は、強烈な印象を残してくれた。
終わり
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<プロフィール>
安藤美姫 あんどう・みき/1981年、愛知県名古屋市生まれ。14歳で出場した2002年ジュニアGPファイナルで、女子史上初となる4回転サルコウ成功。五輪には2006年トリノ大会、2010年バンクーバー大会に出場。世界選手権は2回、全日本選手権は3回優勝。