海外に在留する日本人の総数は推計約129万3097人(2024年10月1日時点、外務省HPより)。日本人の人口は1億2330万人なので(2025年7月1日時点、総務省HPより)、ざっくり100人に1人が海外で生活している計算だ。

 在留先は北米、アジア、西欧の順に多く、この3地域で全体の約82%を占める。逆に言えば、そのほかの地域で邦人に出くわす機会は珍しいから、"秘境"で暮らす日本人を特集するテレビ番組がつくられるのだろう。

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【日大三では公式戦出場経験なし】

「ねえねえ、あそこに日本人がいるよ」

 7月上旬、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴにあるセントロ・オリンピコという複合競技施設で少年野球を取材中、仲良くなった13歳の地元少年が指差す方向を見ると、確かにアジア人らしい風貌の男性がいた。ライトのファウルエリアの片隅で、ネットに向かって黙々と置きティーをしている。

 口の上下にヒゲを蓄え、サムライのようで近づきがたい雰囲気だ。タイミングを見計らって声をかけると、日本人だと言う。

 ドミニカの、いわゆる草野球場でひとり置きティーをしている人物は何者なのだろうか? 頭に疑問符を浮かべながら眺めていると、どこかで見たことのある顔のように思えてきた。

「甘露寺仁房さん、ドミニカで発見される ドミニカ夏季リーグLiga Nacional de Beisbol de VeranoのArroceros de San Francisco de Macorisでプレーしているようです」

 友人のアナリストにドミニカへ取材に行く旨を伝えると、Xの上記投稿が転送されてきたのだ。

 甘露寺(かんろじ)は平安貴族の末裔。由緒正しい家系で、朝日新聞の記事によると彼の両親はテニスの名選手だったという。その息子・仁房(まさふさ)は名門・日大三高で公式戦に一度も出場できずに卒業後、明治学院大学やクラブチーム、独立リーグ、沖縄のジャパンウインターリーグ、オーストラリアのウインターリーグなどを渡り歩き、30歳になった今も野球を続けている。

「ドミニカに来たのは中南米の野球に興味があったからです。サマーリーグというのがあると聞いて来ました」

 ドミニカのサマーリーグと言えば、MLBアカデミーの選手たちが出場する「ドミニカン・サマーリーグ」が最も知られている。

 対して、甘露寺の言うサマーリーグは「リーガ・ナシオナル・デ・ベイスボール・ベラノ」(全国夏季野球リーグ)のことで、アメリカのマイナーリーグで自由契約となった選手たちも多くプレーしているとのことだ。

 試合は週末にドミニカの地方で開催され、給料はミールマネー程度しか出ず、宿泊場所は選手自身で確保する必要があるという。

 それでも元マイナーリーガーが出場機会を求めるのは、この舞台で注目を集めるとドミニカや中南米のウインターリーグ球団にスカウトされ、そこからMLBに進む選手もいるからだ。

 現在、韓国のサムスン・ライオンズでプレーする右腕投手のヘルソン・ガラビト[光白2]は、そうしてキャリアを切り拓いたひとりだ。なかには掘り出し物もいて、NPB球団のスカウトも視察に訪れている。

 甘露寺は今季開幕前のトライアウトを経て、オープン戦に参加。その時の写真がリーグのSNSに掲載された。

「ドミニカでは基本的にみんなゾーンに強いボール投げてきて、『打てるものなら打ってみろ』という感じで三振を狙ってきます。対して、バッターも初球からガンガンいく。そういう野球は楽しいですね」

 甘露寺は30歳になり、いつまで野球をできるかわからないからこそ、できるだけ高いレベルに挑戦したいというのがモチベーションだ。

「その時、その年齢でしかできないことってあると思うので。ここまで長く野球をやっていてよかったと思うのは、人との出会いですね。

日本の独立リーグもそうですが、けっこう地方にあります。野球をやっているからこそ、そういうところにも行けるし、出会える人もいると思うので」

【黙々と壁当てに励む日々】

 野球人生最後の挑戦として、ドミニカに渡ったのが山田大和だ。

 現在21歳の内野手は神村学園伊賀を卒業後、KAMIKAWA・士別サムライブレイズ、宮崎サンシャインズでプレー。家庭の問題で野球を辞めようと考えたが、話し合いの末、夢であるメジャーリーグにつながる道を求めた。

 代理人に紹介してもらい、これでダメならあきらめがつくと6月下旬、ドミニカへ。サマーリーグのトライアウトを受けたあと、7月中旬の開幕までセントロ・オリンピコに練習場所を求めて、少年たちが練習する片隅で黙々と準備を重ねていた。

「ドミニカの小さい子たちを見ていると、野球で成功しようと生活をかけています。たとえ独立リーグでも、日本がどれだけ環境に恵まれていたのかと思いました。ドミニカに来たのは自分で決めたことなので言い訳をせず、いい契約につながるように、使える環境を最大限に使っています」

 山田がドミニカで繰り返す練習は壁当てだ。高さ1メートル、横は2メートル未満で、ボコボコだからどこに跳ね返ってくるかもわからない。さらに、地面はコンクリートである。

 思い出すのは、日本で小学生の頃に壁当てをしていた頃だ。21歳になって同じ練習をすると、その意味が深く感じられる。

「これくらいしか練習できないなか、壁当てをより深くやってみようと動画を撮ってみたら、自分の今まで思っていた動きと実際にやっていた動きが違っていました。ただの壁当てかもしれないけど、意外と自分のなかでは深みを持ってやれています」

【野球が得意なのでやれる限り挑戦したい】

 海外に身を置くと、あらためて自分自身と向き合う時間がたくさんある。現在32歳の内野手・新井勝也は2年間のアメリカ生活を経て、今年ドミニカにたどり着いた。新井は千葉商業高を経て清和大学でプレーしている間に右肩を故障し、卒業後に一般就職した。

 だが野球をあきらめきれず、飲食店で働きながらクラブチームで野球を続け、愛媛マンダリンパイレーツと大分B−リングスを経て、アメリカの独立リーグで2年間プレー。渡米1年目には所属球団が消滅する憂き目に遭ったが、ニューヨークの日本食レストランで働きながら練習してキャリアを切り拓いた。

「現地の人たちに助けられ、運よく生きているような感覚があって。助け、助けられという感じですね。アメリカでもそう。球団が消滅したあと、地域リーグの人に『来てくれ。お願い』と言われてそのチームに行きました。僕は現地にいて、必要とされてプレーすることにすごく喜びを感じています」

 2024年限りでアメリカのビザが切れるタイミングで、初めてドミニカを訪れた。

お試しのバケーションで2カ月間暮らしたのは、ドミニカ中央部にあるラ・ベガ州。大分B−リングスで同僚だったドミニカ人選手を頼り、その彼女の実家に住ませてもらった。

「ものすごく田舎で、ジャングルで生活するような感覚でした(笑)。僕はスペイン語を片言で単語を並べて話すだけですが、意思疎通は軽くできる感じです」

 新井と話していると、とにかく生命力を感じる。海外で生きていくには、何より欠かせない能力だ。

「僕は32歳という年齢もあるので、どこかでプレーヤーとして区切りをつけなきゃいけないと思っているけど、やれる限り挑戦してみようと思っています」

 アメリカの独立リーグやドミニカのサマーリーグは、決して華やかな舞台ではない。周囲の日本人は決まって、「なぜそこまで苦労して野球を続けるのか」という目を向ける。

「単純に野球が得意なので。野球でここまで生きてきたので、これを仕事にしたいなと思って野球をしています」

 ハードルは低くない。一定の実力に加え、労働ビザの取得や、野球を続ける費用の捻出も不可欠だ。

「生活費や医療費もありますし、お金がかかるなって。海外の生活はそうかもしれないですね」

 新井はメジャーリーガーではなく、安定や高収入とは無縁だ。

それでも、海外で得られるものが多くある。

「お金は毎回ギリギリになるけど、その都度、素敵な出会いがあって、なんとか保っているという感じです。やっぱり出会いが、僕の喜びかもしれないですね」

 ドミニカの野球の魅力をどう感じていますか? 新井に聞くと、その答えにハッとさせられた。

「すごく難しいですけど、僕はあまりここの野球に魅力を感じてはいないんですけど(笑)。でも魅力って、金額的にいいお金がもらえる。日本の独立リーグより多くもらえるのが魅力だと思います」

 ミールマネー程度しかもらえないドミニカのサマーリーグだが、世界最高峰の同国ウインターリーグにスカウトされるチャンスがある。それをつかめば一定以上のサラリーが得られ、その後はアメリカやメキシコ球界につながる道も見えてくる。

 そう、プロ野球選手として大きな勝負をできる舞台があるから、彼らは日本から遠く離れた地まで来てチャンスを求めているのだ。

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