球団スタッフが綴る「素顔の中田翔」(前編)
ナゴヤ球場の一角で中田翔から告げられた「引退」のひと言。北海道日本ハムファイターズ入団時から始まった縁は、気づけばプロ野球人生の終着点まで続いていた。
【取材中に鳩を素手で鷲掴み】
「決めたよ。今年で引退するわ。かとちゃんには伝えておくね。でも何人かにしか言ってないから、まだ黙っておいて」
8月12日、ナゴヤ球場の一角で中田翔から伝えられた。
その言葉を聞いて、「そうか」としか答えられなかった。5月頃から腰の状態が悪く、弱気な言葉を聞いてはいたが、いざ引退を告げられると、適切な言葉が出てこなかった。
思えば、不思議な縁である。2007年12月、母・香織さんに連れられ、北海道日本ハムファイターズの鎌ケ谷の寮にあいさつに来た中田を迎える側に私はいた。翌年には通訳を兼任しつつ、ファーム唯一の広報として、春季キャンプを除き、ほぼ中田の専属広報のような役回りだった
寮見学の際には、母親の前でおとなしく見えた中田。しかし、その異才ぶりを最初に目の当たりにしたのは、メディカルチェック後の取材対応の時だった。記者からの質問に答え終えた中田は、足元に寄ってきた鳩を、こともなげに鷲づかみにした。
人の気配を消したのか? それとも人外の妖気に気おされて鳩が硬直したのか? 「いずれにせよ、すげえな。
【キャスター栗山英樹との初対面】
年が明けて、新人合同自主トレの期間中、各種メディアがこぞって鎌ケ谷へ押しかけた。そのなかで出てきた中田の言葉の数々は、ふつうの高卒ルーキーとは思えないものばかり。しかも、どれもパンチが効いていた。
「小遣い30万、少ない」
「すすきの行きたい」
「動けるデブ」
メディア関係者にとっても、おそらく「とりあえず鎌ケ谷へ行っておけ。何か面白いことが起こるから」というノリだったのだろう。1月末には、中田が描いた自身の似顔絵が、スポーツ紙の一面を飾るほどであった。
また、張本勲氏や江本孟紀氏をはじめ、球界の重鎮や名のあるOBたちが、連日のように鎌ケ谷を訪れた。そのなかで強く印象に残っているのが、テレビ朝日の『報道ステーション』でのインタビューである。インタビュアーを務めていたのは、当時スポーツキャスターであった栗山英樹氏だった。
取材当日は小雨模様で、鎌ケ谷スタジアムを訪れたファンの数は少なかった。取材を終えた中田は、インタビューを行なっていた小部屋の窓を開け、その場にいたファン全員にサインを書き始めた。
すると、栗山氏と、同行していた武内絵美アナもファンの列に並び、中田にサインをおねだりした。私が「おふたりもサインいかがですか?」と促し、「え、いいんですかね?」と答えたような流れだったと記憶している。
なんとも微笑ましい光景だった。サインを受け取ったふたりは、そのあとはサインを書く側へとまわり、丁寧にファンサービスに応じていた。牧歌的だった当時の"鎌スタ"らしい光景だ。
後年、ファイターズの一時代を築く名監督と4番打者の出会いは、以上のようなものだった。
【陽岱鋼との未来の三遊間】
その後、私は中日ドラゴンズへと移ったため、ふたりが共に過ごした2010年代の黄金期を経験していない。それゆえ、私のなかでの栗山氏と中田の関係は、当時から上書きされることなく、スポーツキャスターと大物ルーキーのままである。
この年の秋も思い出深い。宮崎でのフェニックスリーグでは、サードに中田、ショートに陽岱鋼(当時の登録名は「仲壽」)がついた。広報レポートに「未来の三遊間」と記したことを思い出す。
数年後、ふたりが札幌ドームの左中間を守ることになるとは、当時は思いもしなかった。
当時のファイターズのファームはスタッフの人数が限られ、肩書きに関係なくみんなで助け合う環境だった。思い出すのは、宮崎・西都の室内練習場での出来事だ。
少年野球を3年しか経験していない私が、バッティングピッチャーを務めることになった。案の定、すっぽ抜けたボールが中田の背中を直撃。中田は痛がるそぶりをしたのち、メンチを切ってきた。「おい、かとちゃん!」と凄みをきかせ、すぐに人を食ったような笑みを浮かべた。懐かしい思い出である(昨年その話をしたところ、中田は覚えていなかったが......)。
思い返せば、この頃から15歳年上の私の呼び名が「かとちゃん」になっていた。
つづく>>