【新連載】Jリーグ語り草(2)
佐藤寿人の2012年
「就任1年目で初優勝。新人監督・森保一の手腕」中編
◆佐藤寿人・前編>>「ルーキー監督」森保一が降格候補チームをJ1優勝へ導いた手腕
2012年のJ1リーグ、開幕──。
それでもこの年、佐藤寿人はキャリアハイのゴール数をマークし、得点王に輝くことになる。キャリアの下り坂に差しかかったエースの覚醒を導いたものとは、いったい何だったのか?
ターニングポイントとなった試合、優勝を意識するようになった出来事など、佐藤寿人が初戴冠の舞台裏を明かす。
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チームも、僕自身も、さほど期待されないまま迎えたシーズンでしたが、開幕前にかけられた森保(一)さんの言葉が、僕にとっては大きかったです。「もう1回、自分の仕事に専念してほしい」って言われたんですよ。「チームを引っ張らなければとか、背負わなければいけないという思いがあるのはわかるけど、自分の仕事を、責任を持ってやってほしい。それが結果的に、チームを引っ張ることにつながるんじゃないか」って。
その言葉で、自分の原点を見つめ直すことができました。僕は当時、キャプテンではありましたけど、点を取ることをあらためて追求していこうと。
前の年はチュンソン(李忠成)というすばらしいストライカーがいたので、彼にも点を取らせたいという思いを持っていました。僕自身も若い頃は、コンビを組んでいたウェズレイに取らせてもらっていたので、同じように彼のためにやりたかったんです。
でも一方で、自分が絶対に点を取らなきゃいけないっていう「ストライカーとしての責任」から逃げているんじゃないかとも感じていました。そういう思いがあるなかで、森保さんに言われたことで、気持ちが吹っ切れましたね。
もちろん、チュンソンがいなくなった(サウサンプトンに移籍)わけで、自分がやらなければいけない。ダメだったら叩かれるわけだし、ポジションも奪われるかもしれない。あの年は、それくらいの危機感を持っていました。
【森保監督のマネジメント能力】
そうした意識の変化に加え、チームメイトにも助けられました。あの年は22ゴールを挙げて得点王に輝いたんですけど、特別に調子がよかったかと言われれば、感覚的には前の年とそれほど変わっていないんですよ。
ただ、点を取るためには2シャドーとの関係性が重要で、その意味では(石原)直樹が加入したことは大きかったですね。
直樹はそんなに大きくはないですけど、身体が強くてボールが収まるんです。それに彼は1トップにも対応できる選手でした。
実はあの年、僕は90分出続けることが減ったんですよ。特に夏の一番タフな時期は、70分くらいに交代することが多かった。僕が下がって、シャドーの選手を入れて、直樹が前線に上がる交代がほとんどでした。
そうした起用法になることは、開幕前に森保さんから伝えられていたんです。「今年は90分出ることにこだわらないでほしい」と。
サッカー選手である以上、やっぱり90分間出たいですし、ピッチに立ち続けてより多くのゴールを取りたいという思いを持っています。パフォーマンスが悪ければしょうがないですけど、いいプレーができているのに交代させられるのは、納得いきません。
でも森保さんは、シーズンを通して考えて、僕をフル出場させない決断を下したんです。いいコンディションでプレー続けてほしいから、余力があっても交代させることはあると言われていました。
実際に夏場には交代が増えたのですが、コンディションが落ちずにコンスタントに結果を出すことができました。大事な終盤戦はフル出場が増えましたけど、長いシーズンを見据えたうえでの森保さんのマネジメント能力が、優勝を成し遂げるうえで大きかったと思います。
広島は「地理的に不利なチーム」だと言われています。特にナイターで行なわれる夏場は、移動のダメージがより顕著になります。その夏場を乗り越えることが、優勝へのひとつの関門と言えましたが、何とかそこで崩れることなく上位をキープできたことが、今振り返ると大きかったですね。
【陰のMVPは35歳の大ベテラン】
特に印象的だったのは、17節の磐田戦でした。
勝負の世界では、アクシデントが起きた時にこそ、真価が問われると思います。
この磐田戦が、まさにそうでした。開始早々にミキッチが負傷交代して、スコアレスで迎えた71分にはトシ(青山敏弘)も腰を痛めてプレーできなくなってしまいました。
主力ふたりがいなくなったなか、トシに代わってピッチに立ったのはナカジ(中島浩司)さんでした。
ナカジさんは前の年に30試合以上出ている主力でしたが、この年は千葉(和彦)ちゃんが入ったことで、まったく試合に出られなくなったんです。ベンチには入っていましたが、ピッチに立ったのはこの磐田戦までに、わずかに1試合だけでした。
試合勘がほとんどない状態でナカジさんが緊急出場したわけですけど、ピッチに立ってからわずか5分後に先制点を決めてくれたんです。あの瞬間は鳥肌が立ちましたね。
常に出ている選手が活躍するのは当たり前ですけど、ふだん出ていない選手が限られた時間で結果を出すのは本当にすごいこと。チーム最年長の35歳がチームを救ってくれたこの試合は、大きなターニングポイントだったと思います。
結局、ナカジさんはこの磐田戦を最後に、試合に出ることはなかったんですよ。
シーズン後半戦に入ると、広島、仙台、浦和の3チームが優勝を争う構図になりました。そのなかで迎えた22節の仙台との直接対決が、優勝への分水嶺となりました。
僕たちは前節に磐田に引き分け、2位に転落し、仙台は川崎に勝って再び首位に立ちました。1ポイント差で追いかける状況で、勝てば首位の座を奪還できる一方、負ければ4ポイント差に広げられてしまう重要な一戦でした。
【ハシェック超えが大きな勲章】
試合は前半こそ手堅い展開となりましたが、後半立ち上がりにカズ(森崎和幸)のゴールで先制しました。一度は同点にされたものの、78分に(髙萩)洋次郎がボレーを決めて、2-1で競り勝つことができました。
この大一番で存在感を放ったのは、両サイドでプレーする清水航平と石川大徳の若いふたりでした。ふたりとも開幕当初は試合に出られませんでしたが、主力の離脱もあり、徐々に頭角を現してきました。この仙台戦でも臆することなくプレーし、ゴールにも絡んでいます。自分を表現して、チームを勝利に導いてくれたことが頼もしく感じられました。
彼らとは、いつも居残りでクロスの練習をしていたんですよ。その成果が出たのもうれしかったですね。
この仙台戦で勝利を収め、首位の座を奪還した僕らは、以降、その座を明け渡すことはありませんでした。浦和は失速し、仙台との一騎打ちとなるなか、シーズン終盤は足踏みを強いられる時期もありました。
ただ、優勝の重圧がなかったと言えば嘘になりますが、プレッシャーに苦しんだわけでもありません。僕らはそもそも、開幕前から優勝を目指せるような状況ではなかったですから。
優勝争いは初めてだったので、目の前の試合のことでいっぱいいっぱいだったんですよ。優勝経験のあるメンバーはディナモ・ザグレブでプレーしていたミキッチくらいで、僕も含め「優勝とはなんぞや?」という感覚でしたから。
それよりも僕がリアルに目指していたのは、クラブ記録を超える20ゴールを奪うこと。それまではハシェックの19ゴールが最多だったんですが、27節の鳥栖戦で20ゴールに到達し、記録を塗り替えることができたのは、僕にとっての大きな勲章です。
もちろん、シーズン終盤に首位に立っている以上、優勝というものを意識せざるを得ない状況でもありました。サポーターの期待も大きかったですし、メディアからも優勝争いについて聞かれることが増えていったので、優勝を現実的に考えるようにはなっていました。
【テレビCMでみんなの目線が揃った】
はっきりと優勝を意識したきっかけは、当時、Jリーグを放送していたスカパー!のCMです。
優勝争いが佳境を迎えるなか、「ユニフォームに星をつける!」というコピーのCMを、選手とサポーターが一緒になって作ったんです。
僕らにも当然、タイトルという想いはあったんですけど、当時の僕らが思い描いていたタイトルは、カップ戦のタイトルなんですよ。リーグを獲れるなんて思ってもいなかったですから。
でも、自分たちがその言葉を発することで、みんなで意識を共有できた。どこを目指すのかといえば、もうそこしかない。千載一遇のこのチャンスをモノにするしかないという思いが自然と生まれていきました。
僕らが自発的にやったことではなかったですけど、外からそういう場を作っていただいて、言葉にすることができた。やっぱり、言葉にすることは大事なんですよ。「ああ、今の僕らなら、その言葉を発してもいいんだな」って。あのCMを作ったことで、みんなの目線が揃ったし、目標設定が変わっていったんです。
(つづく)
◆佐藤寿人・後編>>「なにくそ」の思いを糧に、地方クラブのハンデを乗り越えた
【profile】
佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、セレッソ大阪→ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。日本代表・通算31試合4得点。ポジション=FW。身長170cm、体重71kg。